第47話を鑑賞しましたが、見どころがてんこ盛りの神回でした。
あと二話で終わってしまうのがとても寂しいです。
しみじみと鑑賞しながら、宮崎駿の名作『風の谷のナウシカ(漫画版)』を何となく思い出したので、それについても軽く触れながら考えをまとめてみます。
「一度闇を知った人間が愛?(ビシン)」
ハグプリに登場するキャラクターたちは、誰もが決して小さくない闇を直視してきました。
それはプリキュアの5人にとってもそうですし、クライアス社の社員や社長にとっても同様です*1。
では、そもそもなぜ、同じ経験をしていながらも、プリキュアとクライアス社は進む道が正反対に別れてしまったのでしょうか。
その答えのうちの一つが、今回の話の中でビシンの放った「一度闇を知った人間が愛?」という魂の慟哭に込められています。
ビシンにとっては「闇を直視する」ことは耐え難き絶望であり、世界は自分たちに奈落の底で生きることを強いる不条理なものでした。
では、どうすれば「闇を直視せず」、不条理な世界で生きていけるか。
それを考えた末の行動が、時を止める=世界そのものの否定でした。
ビシンだけではなく、更生する前のクライアス社の人間は、皆そのように考えていたことでしょう。
リストルなんかはもっと顕著で、闇を直視せずに生きるべく、心を喪失させることを選びましたね。
一方、プリキュアたちは違います。
彼女たちも、クライアス社の人間と同様に「耐え難き闇」を直視してきました。
しかし、それでも彼女たちは奈落の底で立ち上がりました。なぜか?
それは、周囲の大切な人たちが、彼女たちのことを支えてくれたからです。
彼女たちが、大切な人たちの想いに気付いたからです。
大切な想いを届けること、それはすなわち、「応援」です。*2
彼女たちはそうした「応援」を受け、また、自らに対して「応援」をすることで、闇から這い出ることができたわけです。
クライアス社の人間は、「応援」を喪失していたために一度は闇落ちしてしまったわけですが、プリキュアたちによる「応援」により、再び立ち上がることができました。
風の谷のナウシカとの類似点
いのちは闇の中のまたたく光だ
出典:風の谷のナウシカ 7巻
これは、「生命は光だ!」という相手側の主張に対してナウシカが放った言葉です。*3
なんとも痛烈な言葉です。
命は光そのものではなく、闇の中でまたたく小さな光でしかない。
闇の中で必死にもがきながら光り、消え、光り、消える。
またたく程度の光では、世を照らすことは叶わないでしょう。
周囲は闇ばかりで、光はほとんどありません。
闇に包まれた過酷な環境で、必死にもがき、かろうじて明滅を繰り返す儚い存在。
これこそが命の本質であると、ナウシカは明言します。
光の戦士プリキュアは闇を知っている
プリキュアは光の戦士ですが、闇を知らない戦士ではありません。
彼女たちは闇を直視した経験を持ちながらも、闇の中にある光を信じています。
だからこそ、敵対していたクライアス社の人間の抱える闇を当然のように受け入れ、抱きしめることができるのです。
47話でも似たようなシーンがありました。
ハリーが自ら鎖の封印を解き、怪物の姿に変身するシーンです。
止めようとする者もいましたが、キュアエトワールは止めずに変身を促しました。
怪物の姿は、ハリーの抱える闇の象徴とも言えます。
変身したハリーは、その姿を受け入れると言い放ちます。
そして、その姿のまま、ろくに闘うこともなく、リストルを抱きしめるのです。
今作のプリキュアは、闇それ自体を否定するわけではなく、自らの抱える闇を受け入れ、相手の抱える闇を認め、抱きしめ、応援してきました。
それは、彼女たちが闇の中にまたたく光を信じているからです。
おわりに
いのちは闇の中のまたたく光だと主張するナウシカと、闇を受け入れそれごと抱きしめるプリキュア、両者とも闇を認めているという点では共通しています。
過去のプリキュアでは、闇の象徴たる存在を倒してハッピーエンドという勧善懲悪的なストーリーもありましたが、ハグプリはそれとは異なる路線を歩んでいます。
奈落の底で人は立ち上がれるか、再起することはできるか、というのも今回の重要なテーマの一つです。
なので、元敵キャラたちが仲間になって一緒に闘うという47話の激アツシーンは、来るべくして来たと言えるでしょう。
ところで、トラウムさんのコックピットに貼ってあった愛娘の写真を見ると泣きそうになりますが、その隣にルールーの写真が新しく貼られているのも泣けますね。
残り2話しか残っていないという事実が受け入れ難い。
時間を止められないかな。