スタプリ43話、細やかな演出もさることながら、これまで積み重ねてきた「天宮えれな」というキャラクターが丁寧に紐解かれていく描写には、涙を禁じ得ませんでした。テンジョウさん……。
この記事はスター☆トゥインクルプリキュア43話の感想考察です。43話のネタバレを含みますので未視聴の方はご注意ください。
- グーテン星の価値観
- 子ども達にとって「死語」は一周回って「目新しい」
- テンジョウはプリキュアからも「見下される」
- 仮面の演出がすごい
- そして、まどかはえれなを救う
- ひかるはえれなを直接的には救わない
- 天宮えれなの「なりたい自分」
- 仮面を外したテンジョウの台詞は…
- 沈黙の5秒間
- 玉ねぎ、ふきこぼれる鍋
- スタプリ43話の小ネタ
- 終わりに:もうひとつのイマジネーション
グーテン星の価値観
グーテン星人「君! 鼻が…! 不憫~! あまりに不憫~! …頑張りたまえよ」
まどか「何か励まされてますけど」
トッパー「この星では鼻が高いことがカッコよくて素敵とされてるでアル」プルンス「余計なお世話でプルンス!」
前半パートにて、グーテン星では鼻が高いのが「良い」という価値観があることが示されます。もちろん、日本においても特定の身体的特徴が「良い」とする価値観はありますが(例えば足の長さなど)、グーテン星のそれは少し違います。グーテン星では「鼻の高さ」がその人の「運命」すらも分ける、とテンジョウさんは言っています(詳しくは後述)
グーテン星における「鼻の長さ」は、日本における「足の長さ」などとは比べ物にならないほど重視されていることが分かります。実際、上記のグーテン星人は、鼻の短い(というより見当たらない)プルンスに対して、「不憫」だと声をかけ、「がんばりたまえよ」と同情すらしています。「鼻が短い」ことで、どれだけ不遇な人生を歩むことになるか…と憐れんでいるのです。
また、注目したいのは、グーテン星人が見ず知らずのプルンスに対して、「面と向かって」そのような憐れむ発言をしているという点です。昔ならいざ知らず、現代の日本では、見知らぬ相手の身体的特徴を指摘しながら「不憫」「がんばりたまえよ」などと同情することは、「モラルに反する」という価値観が形成されつつあると思います。
しかし、星空界の中でも高度な文明を有するグーテン星では、そうしたことが一般的に行われています。これが何を意味するかというと、グーテン星では鼻が短いことは「不憫」なだけではなく、「不憫」だと公の場で言っても問題にならない――つまり、それがグーテン星におけるモラルであり、文化であり、価値観だということです。
身体的に魅力がないことをもって差別的に扱うことを「ルッキズム」といいますが、グーテン星では「鼻が短い」と「不遇な人生を歩むことになる」ということが社会的に公認(もしくは黙認)されているわけです(※1)
ただし、スタプリがスタプリらしいのは、そうしたグーテン星の「価値観」をひかるさんたちが否定しない点です。惑星サマーンの「価値観」すらも否定しなかったひかるさんたちなので(※2)、いまさら驚くことではありませんが、「いかに相容れない異文化であっても、まずは否定せずに、その文化の素敵なところを楽しむ」というスタンスが、作品として一貫していることが分かります。
※1 私たちがルッキズムに対して否定的な考えを抱くのは、「生まれつきの特性をもって差別的な扱いを受けることは良くない」という価値観がある程度共有されているからです。しかしこの価値観は、現代の地球における一部の国家間では共有されているものの、歴史が示すように、普遍的でもなければ不変的でもありません。(私たちが正しいと思うかは別として)
※2 惑星サマーンはディストピアなのか?という考察です。
子ども達にとって「死語」は一周回って「目新しい」
グーテン星人1「驚いたかい? ヴィヴィッドでファンシーなモード系の隠れ蓑さ」
グーテン星人2「ハウスマヌカンの一押しよ」
グーテン星人1「お互い鼻が高いねぇ!」
ララ「オヨ…」
ひかる「キラやば~っ☆」
高度な文明の進んだ惑星であるグーテン星では、「光学迷彩(透明マント)」が実用化され、ファッションとなっているから驚きです。グーテン星人に言わせれば、それが「ヴィヴィッドでファンシーなモード系」だそうです。このシーンはグーテン星人の科学技術の高さを示すとともに、グーテン星人のファッションセンス、すなわち彼らの価値観がひかるさんやララたちとは異なっているということを改めて強調する効果を生んでいます。
ちなみに、ヴィヴィッド、ファンシー、モード系、ハウスマヌカンの意味は以下の通りです。すべてをまとめて言うと、「鮮やかで趣味的な意匠がこらしてある流行の隠れ蓑」という意味になります。それらの意味は下記の通りです。(ちなみにハウスマヌカンは作中ではブランド名として使われていますが、意味としては「アパレル店員」を指す言葉です)
ヴィヴィッド
生き生きしているさま。鮮やかなさま。
出典:ヴィヴィッドとは - Weblio辞書(三省堂 大辞林 第三版)
ファンシー
① 想像。空想。
② 趣味的な意匠をこらしてあるさま。奇をてらっているさま。出典:ファンシーとは - Weblio辞書(三省堂 大辞林 第三版)
モード
(ファッションの)流行。 「秋の-」 「 -雑誌」 「ニュー--」
出典:モードとは何? Weblio辞書(三省堂 大辞林 第三版)
ハウスマヌカン
自社製品を着用して販売に当たるブティックの女性店員。ハウスマヌカンとは何? Weblio辞書(三省堂 大辞林 第三版)
高度な文明を持つグーテン星人ですが、使っている言葉はひと昔前の時代を感じ画あり、そのギャップには思わずくすりと笑ってしまいます。
しかし、メインターゲットの子どもたちからすれば、ひと昔前の言葉(特に「ハウスマヌカン」は80年代の流行語であり現在ではほとんど耳にしない死語です)はまさに「宇宙語」みたいなもので、一周回って「目新しさ」すら感じることでしょう。そういう意味では、グーテン星人の言葉がひと前昔のものであるのは、ある意味ピッタリかもしれません。
テンジョウはプリキュアからも「見下される」
ソレイユ「テンジョウ、もうやめよう」
テンジョウ「憐れみをかけるつもり?」
テンジョウさんは「もうやめよう」と言うえれなさんに「憐れみをかけるつもり?(見下しているんでしょう?)」と返していますが、実際、このときのプリキュアたちはテンジョウさんよりも「一段高い位置」にいて、自然とテンジョウさんのことを「見下ろす」状況になっています。
また、このあとの台詞で、コスモから「ノットレイなしのあなたに勝ち目はない」という発言があるのですが、そこにはまさにテンジョウさんのことを「見下す」意味合いが含まれています。幼い頃から憐れまれ、見下され続けてきたテンジョウさんが、プリキュアたちからも憐れまれ、見下されるという残酷な構図になっているわけです。
ユニ「ノットレイなしのあなたに、勝ち目はないわよ!」
仮面の演出がすごい
テンジョウ「見たでしょう。この星ではね、鼻の長い者がよしとされ、鼻の短い者は見向きもされない。それだけの差が運命を分ける! 鼻の長さなんて関係ない…そう言って、優しい笑顔を見せた大人たち。でも、仮面の下では、憐れみ、見下しているの」
子ども時代のテンジョウさんがあまりにもかわいすぎて、そのかわいすぎる幼テンジョウさんが自らの個性を見下され、辛い思いをしてきたのだという事実に胸を締め付けられます。39話のテンジョウさんの回想シーンでは、他のグーテン星人の顔はみな黒く塗りつぶされており、まるで仮面をかぶっているようでした(※1)
テンジョウさんにとって、グーテン星人たちはみんな笑顔という名の仮面をかぶり、内心では他者を見下している存在だったことが39話の時点から示されていたと言えます。
また、テンジョウさんは自らの過去を消すのだと言い、誰にも知られたくなかった辛い過去の象徴でもある仮面を間接的に握りつぶすこの演出は、「おお…」と感嘆の声を漏らさずにはいられませんでした。
テンジョウ「誰にも知られたくなかった、わたしが捨てた過去。でも、あなたたちは知ってしまった。消えてもらうわ…わたしの過去と、一緒にね!」
※スタプリ39話、テンジョウさんの回想シーン。
そして、まどかはえれなを救う
ソレイユ「セレーネ…あたし…あたし、どうすれば。テンジョウ…」
セレーネ「えれな、大丈夫。自分を、信じて」
ソレイユ「まどか…」
自分が大切にしていた笑顔が本当に大切なものなのか分からなくなり、どうすればいいのかも分からなくなったソレイユに、セレーネは言います。
ソレイユは「セレーネ」と声をかけますが、セレーネは「えれな」と返します。「大丈夫。自分を、信じて」。セレーネは、プリキュアとしての「ソレイユ」ではなく、大切な友人としての「えれな」に向かって言っています。それに呼応するように、ソレイユもセレーネのことを「まどか」と呼び返しており、その、なんというか、もうありとあらゆる感情がこみ上げてくるシーンでした(※1)
また、このシーンにおいても、まどかさんはえれなさんに助言をするものの、具体的にどうするべきかまでは指摘しません。「自分を信じて」とは、言葉を変えれば「あなたはどう想うの?」という問いかけです。
これはまどかさんを救ったひかるさんの言葉であり(5話)、ララを救ったまどかさんの言葉でもあり(29話)、盗みを企むユニに対して「本当にそれでいいと想うの?」と大切なものは何なのかユニに改めて考えさせた言葉でもあります(36話)。これまでも繰り返し書いてきましたが、スタプリは「あなたはどう想うの?」という「自己決定」を尊重しており、誰かを救うときでも、それは同様なのです。
※1 名前を言い直すシーンと言えば、スタプリ11話も最高でした。ひかるさんが涙した理由。
ひかるはえれなを直接的には救わない
前回の考察でも触れましたが、まどかさんがえれなさんにこの言葉をかけられたのは、ひかるさんのおかげでもあります。ただ、スタプリのピンクであるひかるさんは、えれなさんがトゥインクルイマジネーションを見つけるのに直接的には関与していません。また、エピソードとして、ひかるさんが直接的にえれなさんを救ったこともありませんでした。ピンクの存在感を強調するためには、ピンクによって直接的に救われる展開を描くのがもっとも手っ取り早いですが、スタプリはそうした選択をしなかったのです。
なぜ、ひかるさんはえれなさんを直接的に救わなかったのでしょう?
それは、ひかるさんが「中心的になりすぎる」のを懸念したためではないかと考えます。メンバーたちの苦悩をすべてひかるさんが解決していくと、もはやひかるさんさえいればそれで済んでしまう、という印象を与えかねません。そうなってしまうと、スタプリが描こうとしている「多様な価値観が交流し合うことで生まれる相互作用の連鎖」を霞ませてしまいます。
実際、まどかさんがえれなさんに言った台詞、「自分を信じて」という言葉は、ひかるさんの「まどか先輩はどう思うの?」という台詞に影響を受けてはいますが(5話)、まどかさんがこれまでずっと悩み抜いてきたことにも関係しているものです。自分のことを信じ切れずに矢を外してしまったまどかさんは、最終的にはみんなが支えてくれたことで自分自身を信じる事ができ、弓道大会で優勝ができました(16話)。また、冬貴さんから留学するよう決めつけられた際も、自分と向き合った結果、「自分の未来は自分で決める」のだと明言しました(41話)
まどかさんにとって、「自分を信じられるか?」ということは、宿命的な命題であり、41話にてそれを解決できたからこそ、えれなさんに「自分を信じて」と重みをもった言葉で助言できたわけです。まどかさんの価値観は、ひかるさんの影響を受けてまるっきり違うものに変わったわけではなく、ひかるさんやたくさんの人たちの影響を受けながら、「自分らしくアップデートされた」ものであることが分かります。
もちろん、ひかるさんがいなければまどかさんはプリキュアになることもなく、まどかさんがえれなさんと仲良くなることもなく、えれなさんを救うことにも繋がらなかったでしょう。そういう意味では、ひかるさんはえれなさんを間接的に救ったと言えますし、ピンクとしての重要な役割を果たしたとも言えるはずです。
※ スタプリ41話の考察です。まどかが「香久矢」と向き合うとき。
天宮えれなの「なりたい自分」
えれな「テンジョウ、あなたの言う通りかもしれない。あたしも作ったんだ。笑顔を。ノットレイになったママが言ったように、あたし、自分が本当の笑顔になっているかどうかなんて、考えたこともなかった。人の笑顔のことばかり考えてて。本心を仮面で隠すって言ってたけど、でも聞けたよ! あなたの本心!」
えれな「テンジョウ…あたし、分かるよ、あなたの気持ち。だって…あたしもそうだったから! あたしも、みんなと違うって…みんな、あたしのこと、本当はどう思っているのかって、ずっと気にしてた…でも、それを救ってくれたのが、家族の笑顔。本物の笑顔だった。だから救われたんだ。笑顔にはすごい力があるんだ」
テンジョウ「黙れ黙れ!」
えれな「あたしは、人の笑顔のために、自分を犠牲にしているんじゃない! あなたのおかげで気付けた。思ったの、あたし…あなたを、笑顔にしたい」
テンジョウ「なぜ…何でそんなことを言うの!」
(中略)
えれな「だって、笑顔を見るのが嬉しいの、大好きなの! みんなの笑顔が…笑顔が、あたしの、笑顔になるの! だから、だから…あたしは、みんなを笑顔にしたいんだ!」
ここでついに、えれなさんのトゥインクルイマジネーションが輝きます。
えれなさんにとって、「みんなを笑顔にする自分」こそが、「憧れのわたし」であり、「なりたい自分」だったのです。
もともと、メンバーたちにとって、「プリキュアに変身する理由」は「大切なものを守るため」であることが17話では語られていましたが、トゥインクルイマジネーション編に移ってからは、「そもそも何を大切にしたいのか」「どういう自分になりたいのか」ということが描かれているとも言えます。
えれなさんの大切なものは「みんなの笑顔」です。だからこそ、「みんなを笑顔にしたい」と願いました。えれなさんは「みんなの笑顔を見たいと思う自分自身のために、みんなを笑顔にしたい」わけで、その「想い」は「自己犠牲」ではなく、「自己実現」なのだと主張するのです。
自己実現。
トゥインクルイマジネーション…すなわち、「憧れのわたし」を描き、「なりたい自分」になりたいということを端的に表すならば、その言葉が相応しいのかな、などと考えています。
仮面を外したテンジョウの台詞は…
さて、えれなさんの言う「みんな」の中には、テンジョウさんをも含んでいましたが、果たして、えれなさんはテンジョウさんを笑顔にすることができるのでしょうか?
それは分かりません。「分かり合うことの難しさ」を知ったサボロー回(スタプリ34話)を経たえれなさんは、価値観の異なるテンジョウさんと分かり合うことがいかに難しいのかを理解していますし、だからこそ、「絶対に分かり合えるはずだ」といった発言は一切しません。
しかし、希望がないわけではありません。
仮面は本性を隠す道具です。今回、テンジョウさんはそれまで被り続けていた仮面を捨て、その素顔を、その本心を見せました。仮面を捨ててからのテンジョウさんの発言は、胸に抱き続けてきた「本心」だったのではないでしょうか。
もし、そうであるならば。
テンジョウさんが、去り際にえれなさんに言い放ったあの台詞もまた、「本心」であったはずです。
テンジョウ「わたしを…笑顔にできて?」
※ララの「なりたい自分」についての考察はこちら。
沈黙の5秒間
テンジョウさんに手を差し伸べるソレイユでしたが、その手が握り返されることはありません。テンンジョウさんはそのままワープをして去ってしまいます。
5秒間。
テンジョウさんが消え去ってから、ソレイユが虚空に向けて手を差し伸べ続ける時間です。場面がフェードアウトするまで、その5秒間の沈黙は続き、鑑賞者は否応なしにソレイユの心を想像することとなります。とても胸を締め付けられるシーンでした。
※無音の世界でカッパードさんがじっとララを睨みつけるシーンも心に来ました。
玉ねぎ、ふきこぼれる鍋
いつも笑顔を浮かべているえれなさんが、ぼろぼろと涙を流すまでに至る描写も見事でした。料理を一緒にやると言ったえれなさんは、玉ねぎを切っていました。ザク、ザク、ザク、と玉ねぎを切る音がします。
しかし、継続的に続いていたその音が途中で聞こえなくなったかと思うと、大粒の涙がまな板に落ちます。玉ねぎの刺激で泣いている…わけではありません。カメラがすぐにえれなさんの顔にスライドして、その涙がえれなさんの「心からの涙」であることが明示されます。このときにふきこぼれる鍋は、えれなさんの溢れる感情を表現しているようです。
えれな「ママ…相手に自分の気持ちを伝えるのって、笑顔にするのって、難しいね。でもあたしは、みんなの笑顔が見たい。一緒に、笑い合いたいんだ…」
かえで「えれな。人を笑顔にできるって、すごいことよ。でも…人のために泣けるのはもっとすごい。それって、相手のことを本気で考えているってことだから。泣きたいときは泣いてもいい。わたしはそう思う。きっといつか、一緒に笑顔になれる日が来るよ」
えれなさんは「みんなを笑顔にしたい」という想いを抱いているわけですが、けっきょく、テンジョウさんを笑顔にすることはできず、その想いは叶いませんでした。
たとえば、ララやまどかさんの想いはある程度叶っていましたし、ユニについても、アイワーンちゃんとの和解までには至らずとも、希望のある決着のつけかたになっていました。現時点では、えれなさんだけが際立って「分かり合うことの難しさ」「(人を笑顔にするという)なりたい自分になれない現実」を見せ付けられています。
えれなさんはこれまで「弱みがない」キャラクターとしてみんなをアシストしてきましたが、そんなえれなさんの「仮面」が剥がれ落ち、「決定的な挫折を味わう」のが、今回の話でした。
もし今回の話でえれなさんとテンジョウさんが分かり合い笑顔になっていれば、えれなさんというキャラクターがあまりにも強くなりすぎますし、相反する価値観を持つテンジョウさんと簡単に分かり合えてしまうと、「分かり合うことの難しさ」を描き続けてきたスタプリのテーマにも抵触してしまいます。そういうわけで、えれなさんの想いが今回叶わなかったのは、脚本上、必然であったと考えます。
スタプリ43話の小ネタ
天宮家の壁に貼られている絵はそのときのエピソードを示すことが多々あり、たとえばとうま君回では家族の絵が、サボロー回ではサボテンの絵が描いてありましたが、今回は6色+星マークの絵が貼ってあります(←追記 改めて見返すと16話の時点から貼ってありました)
輝いている星マークはトゥインクルイマジネーションを輝かせたえれなさんを象徴しているのかな、と思ったのですが、色が茶色っぽい感じなので、えれなさんのイメージカラーのイエローにピッタリ合うわけではないんですよね。(ミホッシースターズのときにソレイユはイエローを名乗っていました:スタプリ37話)
ただ、6色+1色で、計7色になるので、これは7人家族の天宮家を指しているようには思うのですが、それ以上のことはよく分かりません。何か思いつく方がいらっしゃったらぜひ教えてください。
※サボロー回の壁にはサボテンの絵。
終わりに:もうひとつのイマジネーション
みんなと違うことで悩んでいたえれなさんは、家族の笑顔に救われた、だから笑顔が好きなんだと言いました。
では、テンジョウさんはどうだったか。
おそらく、テンジョウさんは家族からも本当の笑顔を見せてもらえなかったのではないでしょうか。
心からの笑顔を見せてくれる存在が身近にいたかどうか。
えれなさんとテンジョウさんの違いは、それだけしかないのかもしれません。
(二人がよく似た境遇であったことは、幼少期の回想シーンの情景がほとんど同じであることからもうかがえます)
そして、それは何もテンジョウさんとえれなさんだけではありません。ユニだって、幼少期にすべてを失い、ノットレイダーのアジトに流れ着いていたなら、きっと今頃は幹部になっていたでしょうし、幼少期のアイワーンちゃんが漂流した先がハッケニャーンのテントだったら、今頃はプリキュアになって、ノットレイダーのユニと戦っていたかもしれません。
そう、スタプリが見せてくれるイマジネーションは、キラキラと輝く綺麗なものだけではありません。ほんの少し何かが違っていれば、ノットレイダーたちはノットレイダーにならずに済んだかもしれませんし、ほんの少し何かが違っていれば、プリキュアたちだってノットレイダーになっていたかもしれないのです。そして、それは画面の向こう側にいる彼女たちだけの話ではなく、「私たち」にも当てはまることです。
私も、あなたも、ほんの少し、何かが違っていれば、ノットレイダーになっていたかもしれない。
それこそが、スタプリの描こうとしているもうひとつのイマジネーションではないかと、私は思うのです。
前回の42話の考察です。笑顔という名の「仮面」。
テンえれが胸に響きすぎてしばらくはずっとテンえれの妄想に明け暮れていました。
以上、スター☆トゥインクルプリキュア43話の感想考察でした。
今回も記事をひとつにまとめています。
長々と読んでいただきありがとうございました。