新海誠監督の『天気の子』、めちゃめちゃ面白かったです。
私が新海誠のアニメにはまったのは『彼女と彼女の猫』『秒速3センチメートル』がきっかけでした。
特に『秒速』は、アニメに対する見方を一変させられた作品です。これを見ていなければ、アニメという芸術の奥深さに気付くのはもっと遅れていたと思います。
自分のことはさておき、今回は『天気の子』を視聴しながら、気になったことについて時系列順にまとめてみました。取り急ぎ書いた個人的な備忘録ですので、今回は論点をまとめたりといったことはしていません。
ネタバレを含みますので、未視聴の方はご注意ください。
- 見方の説明
- 『天気の子』のメモ
- 0:07 帆高、顔に絆創膏をいくつも貼っている
- 0:09 帆高、喜びながら豪雨を浴びている
- 0:10 須賀「誰かの命の恩人になったのは初めて」
- 0:25 豪雨が過ぎ去り、晴れになる
- 0:32 須賀の左手がカメラに映る指輪
- 0:35 『ふたりはプリキュア』
- 0:40 須賀、煙草に手を出してやめる
- 0:45 天気の巫女の代償についての説明(2回目)
- 0:50 帆高、指輪を陽菜に渡すんだというモノローグ
- 0:51 陽菜と須賀の会話。
- 0:52 須賀の娘の喘息症状
- 0:54 轟くような不安定な音楽
- 1:02 カウンターにひとり座る須賀。
- 1:11 帆高が陽菜に指輪を渡す
- 1:28 帆高、自分を止めようとする須賀に銃を向ける。
- 1:35 陽菜が地上に戻る
- 1:41 須賀の事務所が綺麗で新しいところに移転している
- 1:42 世界は最初から狂っていたのか?
- 終わりに
見方の説明
左側に書いてあるのは、そのときの時間です。
「0:07」であれば、開始7分のときの場面のことを指しています。
※上映中の記憶とメモを頼りに書いたものですので、時間についてはおおよその目安として見てください。実際の時間とは食い違っている部分が多々あると思います。
※元々公開するつもりのなかった個人的メモなので、文体もメモっぽい感じです。
『天気の子』のメモ
0:07 帆高、顔に絆創膏をいくつも貼っている
→家出をしてきたことも合わせて考えると、家庭に問題を抱えていること、親との間で暴力を伴うトラブルがあったことがうかがえる。
0:09 帆高、喜びながら豪雨を浴びている
危険だとアナウンスされているにもかかわらず、帆高は自身に降り注ぐ豪雨を喜んで受け止めている。
→豪雨は異常気象であり、狂った世界の象徴であり、本来ならば「負のイメージ」として描かれてもおかしくはないが、帆高は豪雨に対して笑顔を浮かべ、ポジティブな感情を示している。
当初より、帆高は東京の異常な雨について嫌悪感を抱くどころか、ある種の憧れを抱いている節がある。過去を洗い流す「禊」としての雨なのかもしれない。
0:10 須賀「誰かの命の恩人になったのは初めて」
→須賀は妻を事故で亡くしている。妻を守れず、子どもを義母に取り上げられた須賀が、初めて「命の恩人」になった瞬間。
その後の展開で、須賀は帆高のことを追い出し、あまつさえ帆高が陽菜を救おうとするのを妨害し、「恩人」どころか「仇人」に変異する。
しかし、最終的には須賀は自分の人生をかけて帆高のことを助け、再び、帆高にとっての「恩人」となる。この一連の流れが、矛盾にまみれている須賀というキャラクターをそのまま表しているようで本当に好き。
0:25 豪雨が過ぎ去り、晴れになる
→このときの「晴れ」の描写があまりにも美しい。帆高が旧世界から抜け出し、新世界へとたどり着き、希望に満ち溢れていることが示されている。
0:32 須賀の左手がカメラに映る指輪
須賀は妻のことを大切に想っていること、子どもがいること、そして子どもに会いたがっていることが示されている。この段階では、妻を亡くしたのか、それとも離婚したのかは定かではない。
0:35 『ふたりはプリキュア』
ふたりはプリキュアの主人公、キュアブラックとキュアホワイトのコスプレをしたお姉さんが映る。数ある作品のなかから、アニメ・サブカル文化の象徴的作品として『プリキュア』が選ばれていることに、監督のプリキュアに対する並々ならぬ想いの強さと、時代の偏移が感じられる。
0:40 須賀、煙草に手を出してやめる
彼がかろうじて堕落した大人になり切らずに済んでいるのは、娘の存在であることが分かる。
0:45 天気の巫女の代償についての説明(2回目)
代償について繰り返し描写されることで、これが単なる噂話ではなく、物語に大きく関わる問題であることが鑑賞者に対して明確に提示している。
0:50 帆高、指輪を陽菜に渡すんだというモノローグ
そのとき、画面は暗転する。物語がこの場面を境にして大きく切り替わることを暗示している。 0:45での「巫女の代償」の話もあり、鑑賞者は「嫌な予感」を否応なしに覚えさせられる。
0:51 陽菜と須賀の会話。
陽菜と須賀が話す。陽菜と帆高、どっちが先輩なのかという話のなかで、16歳も17際も18歳も変わらないだろう、と須賀がいう。「変わります!」と陽菜が反論する。
その通り。全然違う。陽菜は14歳、つまり歳が1つ小さいがためにマクドナルドのバイトを首になったし、児童相談所の保護対象になった。高校生になればバイトだってできた。18歳であれば法律上は大人とほぼ同等の権利を得られるので、児童相談所からもとやかくいわれることはなくなるだろう。
0:52 須賀の娘の喘息症状
須賀の娘である萌花(もか)がみんなと遊び終わったところで、こほこほと咳をする。喘息の症状。これもまた、鑑賞者に「嫌な予感」を与える効果を果たしている。
0:54 轟くような不安定な音楽
鑑賞者の「嫌な予感」が単なる予感では終わらず、現実のものとなる。
その後、最大の豪雨となり、帆高や陽菜たちが逃げまわる。
1:02 カウンターにひとり座る須賀。
夏美が指摘するよりも前から、灰皿にはたばこが捨てられているのが映っている。それに気付いた鑑賞者はいち早く須賀の胸中を知ることができる。最初に気付かなかったとしても、二度目以降に鑑賞したら「あっ」となる仕掛け。
1:11 帆高が陽菜に指輪を渡す
帆高は陽菜の左手の薬指に通す。帆高が陽菜のことをそれだけ大切に想っていることが示されている。
しかし、このカットの直前、帆高の顔には影がかかっている。影は鑑賞者に再び「嫌な予感」を思い起こさせる。
1:17 「嫌な予感」のとおり、陽菜が消える。
1:23 須賀が自分でも気づかぬうちに涙を流している。警官に指摘されて初めて気づく。
1:28 帆高、自分を止めようとする須賀に銃を向ける。
ここからのシーンは作中でも屈指の名場面。
たったひとりが人柱になることで天気を元通りになるならいいだろう、といっていた須賀が、たったひとりのために自分の人生を棒に振る覚悟で警官に殴り掛かる。陽菜にもう一度会いたいんだ、と帆高はいう。
少年時代に親に反抗して家出をしていた須賀には、その気持ちが痛いほど分かる。妻を亡くし、娘ともなかなか面会できない須賀は、その気持ちが痛いほど分かる。
帆高の銃から発砲された弾丸は須賀を撃ち抜かなかったが、帆高の「想い」は須賀の心を撃ち抜いた。
1:35 陽菜が地上に戻る
ネックレスが外れている。巫女としての力が失われたことを示している。
1:40 おばあちゃんが豪雨によって家を失ったと語る場面。
これにより、帆高は自分の選択は正しかったのかとやや葛藤を覚える。鑑賞者に対しても、「これでよかったと思いますか?」と問いかけている。
1:41 須賀の事務所が綺麗で新しいところに移転している
身なりのしっかりした社員も数名いる。須賀の仕事がうまくいっていることが分かる。半地下にあった小汚い職場は水の中に沈んでいるだろう。須賀は妻を失った悲しみと決別し、不貞腐れながら、半ばやけくそに生きていくのをやめ、娘と前を向きながら生きていることがわかる。
須賀はあのとき、警官から帆高を庇うことを選んだ。大切な人のためにすべての力を出し尽くしていた帆高に胸を打たれた須賀は、不貞腐れながら生きていくのをやめた。世界は狂ったはずなのに、須賀の人生は以前よりも明るいものになっている。
須賀は帆高にいう。自分が世界を変えた? うぬぼれんなよ、と。須賀にとって変わったのは世界ではない。自分自身なのだ。
このとき、須賀は帆高のことを「少年」ではなく「青年」と呼んでいる。須賀は帆高のことをもう子どもだとは見ていない。帆高はもう子どもではない。彼もまた成長したのだ。
1:42 世界は最初から狂っていたのか?
「違う、これは僕たちが選んだんだ」
世界を変えたのは自分たちの選択によるものなのだ、と帆高は自認する。帆高は選択したからこその責任と自覚を持っている。
陽菜は天に向かって祈りを捧げている。もう巫女としての能力はないため、当然ながら雨が止むことはない。
しかし、その表情は穏やかだ。雨をやませようと考えているなら、ここで穏やかな表情を浮かべているのは矛盾する。
つまり、陽菜は雨をやませようとは思っていない。ならば、陽菜は何のために祈りを捧げているのか?
それはおそらく、「感謝」だ。陽菜はこの世界に「感謝」を捧げているのだ。たとえ狂っていようとも、世界は陽菜たちに居場所を与えてくれている。その事実を謙虚に受け止め、狂った世界すらも愛しているのだ。
「雨を止ませる」という行為は、「世界の否定」に他ならない。現に、巫女として生きていた陽菜は、警察や児童相談所から逃げ回るなどして、世界や秩序に抵抗しながら生きていた。
しかし、今はそうではない。陽菜は世界を受け入れている。雨を止ませようとしていたときの陽菜とはもう違う。だからこそ、こんなにも穏やかな表情を浮かべているのだ。
では、なぜ陽菜や帆高たちは、世界を受け入れることができたのか?
陽菜の現実も、帆高の現実も、世界改変の前後で根本的には何も変わっていない。陽菜はたぶん児童相談所につれていかれただろうし、帆高は警察に捕まって実家の島に戻された。彼と彼女の現実そのものに変化はない。
だというのに、帆高は「自分が世界を変えたんだ」と叫び、陽菜は「雨の降り続ける世界」に感謝の祈りを捧げる。
ここまで考えれば、その理由が自ずと分かる。変わったのは陽菜と帆高の心だ。帆高は晴れの世界ではなく雨の世界を選び、陽菜が生存するルートを選んだ。その選択に間違いはなかったと考えている。
なぜ間違いではなかったと思えるのか? それはおそらく、「大切なもの」を見つけたからだ。帆高も、陽菜も、生きていくうえで「大切なもの」を見つけた。帆高にとっては陽菜であり、陽菜にとっては帆高であるけれど、何よりも重要なのは、「この世界は素晴らしい」ということに気付いたことだろう。
しかも、彼らは単に世界を美しく綺麗なものだと捉えているわけではない。彼らは「世界の狂った部分すらも受け入れ、感謝している」のだ。
帆高のいうとおり、彼らはもう、「大丈夫」だろう。
終わりに
私の好きなシーンは何といっても須賀が警察を殴るシーンです。
泣きに泣きました。嗚咽するというよりは、気が付いたら泣いているというような感じです。とめどなく涙が流れ落ちているのに、なぜ泣いているのかと自分で唖然としてしまうような、まさに劇中で須賀が流した涙のような、そんな泣き方でした。
あんなに泣くとは思ってなかったです。須賀さん大好き。
まだ一回しか見ていないので、また見に行きたいです。