十五年間ひかるさんに恋心を寄せ続けたまどかさんが、30歳で失恋する話です。
(ひかララ前提大人ひかまど/百合/GL/前・中・後編を含めて5万字程度)
【2020年9月1日火曜日(幕間)】
「みんな、いなくなっちゃったね」
「いいえ、いなくなってなんか、いないですよ」
「……うん。そうだよね。離れてもいても、いっしょだもんね」
「あ、いえ、そういう意味ではなく……いや、そういう意味でもいいんですけれど……」
「?」
……わたくしがいますよ。
そう言えば、ひかるはどんな顔をするだろう。
驚くだろうか。喜んでくれるだろうか。それとも引かれてしまうだろうか。
踏み出す勇気のないまどかは、ただ静かに愛想笑いを浮かべる。
【2035年1月20日土曜日(残り8日)】
「……めんなさい」
底なしの沼から這い上がるようにまどかは目を覚ました。
執務室はひどく冷えている。勤務時間外になると節電のために自動的に暖房が切れるためだ。にもかかわらず、風邪を引いたときのようにブラウスが汗で張り付いて気持ちが悪い。
時刻は夜の零時前。どうやら残業をしているあいだに少し居眠りをしてしまったらしい。
周囲を見回すが他には誰もいない。それもそのはずだ。プロジェクトのメンバーも休日を返上して出勤していたものの、まどかが途中で帰らせていた。
まどかはついさっきまで見ていた夢を思い出して顔をしかめた。ひかるにキスしようとしたことがバレるあの夢だ。あの日以来、まどかは同じような夢をたびたび見るようになった。
基本的な流れはいつも変わらない。ひかるにキスしようとしたことが発覚して、軽蔑の眼差しで見られる。絶交を宣言されたまどかは必死に謝罪を繰り返すが、許してもらえることはない。部屋の外に追い出されて、ひとりぼっちになる。いくら叩いても扉が開くことはない。それで終わりだ。
伸びをするとバキバキと体の骨が鳴る。連日に及ぶ残業によって、まどかの体はいい加減ガタが来ていた。もう今年で三十になる。少し居眠りをした程度で全身を蝕む倦怠感を打ち消せるような年齢ではない。
例の火災が発生してから既に三日が経過していた。
三年前に有人ロケット開発プロジェクトのサブリーダーとして迎えられたまどかはいまではその働きぶりが認められ、三十歳という年齢でリーダーの地位に就いている。現場レベルで事故原因を調査をしている科学班とも密に連携を取っているが、依然として原因は分かっていない。
今回の火災が奇妙なのは、発生したのがロケット本体ではなく発射台周辺という点だ。ロケット本体ならまだしも、この部分は鋼鉄製であり、火の気があるわけでもない。それに厳しい防火対策も取られている。
にもかかわらず、発射台が燃えたというのはまさしく前代未聞で、過去にも例がなかった。
部内でも沈鬱な空気が流れる中、まどかは歯を食いしばりながら原因の追究をしていた。
そんなまどかのことを見て部下はさすがですねと声をかけてくれたが、それは本質を突いていない。
このまま、プロジェクトが破綻してしまえばいいのに。
少しでも立ち止まると、そういう歪んだ思考に支配されそうだったというだけだ。
飲み物を買いに執務室を出たとき、遠くからすらりとしたシルエットが近付いてくるのが見えた。
「香久矢、こんな時間まで残業か」
「局長こそ、お疲れ様です」
「私は疲れてなどいないさ。なにせ、”たったいま出勤したばかり”だからな」
局長は皮肉まじりに、だがニコリともせずにそうこぼす。
現在の宇宙開発特別捜査局の局長はまどかの父親と同年代の女性である。聡明かつ冷たい印象を与える相貌。そこには年齢相応の皺が刻まれているものの、きびきびとした立ち振舞いからはまったく老いを感じさせることがない。局長がいまの部署に来たのは二年前だが、彼女が笑っているところを見たことはない。
その手腕だけを計れば、官僚のトップである事務次官まで上り詰めていても何ら不思議ではない人物である。
しかし、いかんせん彼女は部下だけではなく上司に対しても不愛想であり、上司の退職祝いにも顔を出さない人柄は非常に受けが悪かった。むしろそうした評判の悪さにもかかわらず、近年では”花形部署”と持て囃されている宇宙開発特別捜査局の局長の席に座れるほどの能力を有した人物だと表現することもできるだろう。
「かくいう君は疲れがたまっているように見えるが。最近動きが鈍いぞ」
「……申し訳ございません」
まどかは先月から一日として休みを取っていない。終わりなきトラブルとそれに伴う連勤は、まどかの能力を下げる一因となっているのは確かであるが、まどかの心身をすり減らしている最大の要因はそれではない。とはいえ、まさか局長にひかるとの関係について話すわけにもいかず、まどかは黙して頭を下げることを選んだ。
「いかがでしたか、会議の方は」
ロケットの開発を行っているのはNASRA(宇宙科学事業団)であり、宇宙開発特別捜査局は計画の立案や進行、各種調整などを執り行っている。
そして局長は日中、NASRA(宇宙科学事業団)や本省に赴いて、プロジェクトの今後についての協議や調整をしていたのだ。
「結論から話す。此度のプロジェクトはいったん中止だ。改めて計画を練り直し、再発射に向けて取り組んでいくことになった」
恐れていた事態が起きた。
まどかも薄々は予想していたが、いざ現実を前にするとショックを隠しきれなかった。唇を噛み締め、かろうじて問い返す。
「……次回の打ち上げはいつ頃が可能でしょうか」
「本省の人間とも話したが、火災の原因も分からず、ここまでトラブル続きだと政治的な問題にも発展しかねん。事は慎重に運ぶ必要がある。少なくとも今年度中……いや、半年は厳しいだろうな」
「そ、そんな……」
「詳しいことは後でメールで送る。月曜に関係機関との連絡調整、火曜には会議をかけて正式な打ち上げの中止を決定する予定だ。それまでに資料の作成を頼む」
淡々としているが、局長の口調には有無を言わせない頑なさが含まれている。
「土日のうちに君のできることは少ない。今日はもう帰りたまえ。明日も出勤しなくていい」
「まっ、待ってください……!」
「聞こえなかったか? ただでさえ動きも落ちている。これ以上は残業代の無駄だ」
局長は冷たく言い捨てるとまどかの横を通り過ぎていく。床を蹴りつける革靴の音が次第に遠ざかっていく。
まどかは後を追うことも、呼びかけることもできず、その背中が見えなくなるのを黙って見届けることしかできなかった。
うなだれながら庁舎の外に出ると、当然ながら外は真っ暗だった。
空には眩い星々が浮かんでいたが、まどかの瞳には映らない。冷たいアスファルトを見下ろしながら、まどかは身を刺すような自己嫌悪に陥っていた。
ぜんぶ、自分のせいだ。
これは自分の力不足が引き起こした事態だ。ひかるには何と説明したらいいのだろう。あと少しで夢が叶いそうだったのに、また引き離されてしまうことを知ったら相当なショックを受けるはずだ。ララとの再開は、ますます遠ざかって――
――本当は、ショックを受けた振りをしてるだけでしょ?
バッと背後を振り返る。そこには誰もいない。
だが、そんなはずはない。いまの声が誰のものなのか、まどかは知っている。
もう一度前を向いたとき、まどかは目を疑った。
――心の底では、これでよかったって思ってるくせに。
そこにはひかるの形をした影が立っていた。
ひかるの影は、ひかるの声で、まどかに語りかける。
――わたしが宇宙に行かなかったら、ララには会えない。これで、わたしを独り占めできるね。
こんなものはただの幻覚に過ぎない。
普段のまどかであれば、あるいはその影がひかるの形をしてなければ、まどかも納得することができたかもしれない。が、過労で疲弊したまどかの脳は、そうした冷静さを失っていた。
「ち、違う……違います……そうじゃありません……」
――何が違うの? ずっと思ってたでしょ? ロケットなんて飛ばなければいいのにって。
「そんなことは……っ!」
――一度も思ったことがない? 胸を張ってそう言える?
まどかはうなずこうとした。だができなかった。金縛りにあったかのように身動きひとつ取ることができない。
――そう。それこそが、まどかさんの本心なんだよ。
じりじりと、ひかるの影が近付いてくる。
「や、やめてください……来ないで……」
――そんなこと言って。本当は、わたしとこういうことがしたいんだよね?
まどかは震える声で抵抗の言葉を発するが、それだけだ。心臓が激しく鼓動を打ち、頭の中でチカチカと何かが弾ける。ひかるの影がまどかの肩を掴み、その顔がすぐ近くまで来たとき、まどかは自覚せざるを得なかった。自分が何を欲しているのか、ということを。
脳がとろけるような、信じられないほど甘い声だった。
――いいんだよ。独り占めして。
耳元に生暖かい息を吹きかけられる。感じるはずのないぬくもりに侵され、力が抜けていく。
――まどかさんは十分がんばったよ。
自分はひかるのためにがんばった。身を粉にしながら仕事に邁進し、ひかるが宇宙に行くために全力を尽くしてきた。
――まどかさんは悪くないんだよ。
自分は悪くない。様々な要因が重なり、運命の歯車が狂ってしまっただけだ。自分がプロジェクトを中断させたわけではない。
――ねえ、まどかさん。
ひかるの影が妖艶な笑みを浮かべる。
――まどかさんの”本当”を、聞かせてよ。
「――――っ」
咄嗟にまどかは地面を蹴った。ひかるの影を振りほどいて逃げ出した。それ以上対話を続けると取り返しのつかないところに行ってしまう。そんな確信があった。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
まどかを苦しめているのは、まどか自身の想いに他ならない。
まどかは夢に向かって一直線なひかるのことが好きだった。それは事実だ。しかしその夢が叶ってしまったら、ひかると結ばれる可能性が完全に消え失せてしまうということもまた事実なのだ。
「わたくしはっ……どうしたら……っ!」
地獄だった。
もはや何も分からない。進むべき道がどこだったのか。自分はどこへ進むべきなのか。救済などないと知りながら進むべきなのか。
痛いのは嫌だ。もう逃げ出したい。すべてを捨てて逃げてしまいたい。だが逃げ道すらもどこにあるのか分からない。
速度を緩めることなく走り続けたまどかは、近くにあった居酒屋に飛び込んだ。
そして手首を刃で傷付けるように、ビールを、焼酎を、日本酒を、際限なく浴びるように飲みつづけた。
【2021年4月8日木曜日(幕間)】
「髪、切ってみたんだ」
観星高校の入学式の日。
短く切られた髪の先を落ち着きなさそうに弄りながら、その新入生は隣に立つ二年生の女生徒に尋ねた。「どうかな?」と。
なぜ一年生が二年生に対してタメ口を使っているのか。他の生徒が見てみれば咎めていたかもしれないが、そこには二人以外には誰もいなかった。
問われた女生徒は神妙な面持ちで見つめていたが、やがて静かにうなずくと、ニッコリ笑ってこう答えた。
「よくお似合いですよ、ひかる」
その髪型の真意には、何ひとつ気付かなかった振りをして。
【2035年1月21日日曜日(残り7日)】
午前二時半。
日付も変わり、終電もなくなり、当てもなく居酒屋を出たまどかはふらふらとひと気のない道路を歩いていた。
外は横殴りの雨が降っていたが、傘を持っていなかったため、まどかの体は数分もすればずぶ濡れになっていた。
だが凍えるような夜気が肌を刺しても、冷たく激しい雨が体を濡らしても、もはやまったく寒さを感じなかった。
こんな時間になってしまっては、自宅に帰るためにはタクシーを使うほかない。そのためにはいったん駅前に向かってタクシーを拾う必要がある。
しかし気付いたとき、まどかが立っていたのは駅前ではなく、とあるマンションの前だった。
宇宙科学事業団の職員住宅――すなわち、いまのひかるの住まいである。
顔を上げると視界に入るのは最上階の端の部屋、ひかるはあそこに住んでいる。
カーテン越しにも明かりは見えないので、もう眠っているのだろう。こんな真夜中なのだから当然といえば当然だ。
「……フフッ」
無意識のうちにひかるの家の前まで来ている自分に、呆れを通り越して笑えてくる。
付き合っているわけでも愛されているわけでもないのに、こんな真夜中になってびしょ濡れになりながら家まで押しかけるだなんて、傍から見ればどんな女として映るだろうか。
これからどうしよう? いまからまた駅に向かう? タクシーを探す? それとも今日は帰宅を諦めてどこかの店で始発まで時間をつぶす?
いや……何もかも、どうでもいい。
行先なんて、最初からどこにもなかったのだから。
まどかは行く当てもないまま足を動かしはじめる。が、数歩も歩かないうちに転倒してしまう。雨水で路面が滑りやすくなっていたのに加えて、まどかの平衡感覚はアルコールに侵されてしまっていた。
「……っ」
立ち上がろうとしたとき、足の付け根に痛みが走り、まどかは道路の隅に座り込んだ。何もかもがどうでもよくなり、いっそのことここで眠ってしまおうかと思った。連日の激務からほとんど睡眠時間を確保できていなかったというのもあり、冬空の下でも意識を手放すのは容易く思えた。
道路で眠った酔っ払いが、翌朝死体で見つかる。
死因は凍死。名前は香久屋まどか、三十歳、国家公務員……。
もしこのまま眠ってしまえば、そんなふうにしてニュースになるのだろうか。
「わたくしは……何をしているのでしょうね」
見ると、少し離れたところにひかるが立っていた。またあの影だ、と思った。偽者のひかる。まどかの求める虚像のひかる。まどかといっしょにいてくれる非実在のひかる……。
「まどかさん……?」
ひかるの声に呼ばれる。慌てたように駆け寄ってきた影にまどかは何か言ったが、かすれた声は湿った夜気の中に消えていき、自分の耳にまですら届かない。
ほどなくして、まどかの世界は暗転した。
☆
「まどかさん、起きて。まどかさん」
目を開けると、パジャマ姿のひかるがいた。自分はひかるの部屋にいるらしい。
「あの、まどかさん……」
まどかが起き上がると、ひかるは言いにくそうに切り出す。
そこで、まどかは気付く。これはいつもの夢だ。キスしようとしたことをひかるに責められ、家を追い出される夢。ひかるはまどかに言うのだ。
さようなら、まどかさん、と。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
まどかが先んじて謝ると、ひかるは心配そうな声で言った。
「まどかさん、大丈夫……?」
顔を上げると、ひかるがじっと見つめていた。いつもの夢ならば既に断罪されているはずだったが、今日の夢は違うらしい。
のそのそと布団の中から出ると、自分が裸であることに気付く。
「え……?」
まどかはひかるの方を見る。ひかるは「寒かった?」とエアコンのリモコンを操作する。
「あの……これって、夢ですよね……?」
おずおずと尋ねると、ひかるは笑って答える。
「まどかさん、まだアルコールが抜けてないの?」
言われてみればズキズキと頭が痛む。完全に二日酔いの症状だ。まどかはその痛み感じることで、これが夢ではなく現実であることを知った。
まどかは慌てて布団を引き上げて露わになっていた胸元を隠す。羞恥を覚えながら困惑していると、ひかるは穏やかな口調で言った。
「まどかさん、昨日の夜、道端で寝ちゃってたんだよ? やっぱり覚えてない?」
「いや……それは……何となく覚えてますけど……でも……何でひかるが……」
「何となく、外を散歩してたんだ。そしたら雨が降ってきちゃって、慌てて帰ってたらまどかさんが道路の端に倒れてて……。泥酔しちゃってたから、とりあえずわたしの家に運んで寝かせたんだ。あ、服はびしょ濡れだったから、ぜんぶ脱がせて乾かしてるよ」
何でもないことのようにひかるは言う。
「でも、起きてくれてよかった。まどかさん、半日以上寝てたんだよ?」
時計の針は午後八時を指している。昨夜、道端で眠る直前に見たひかるの影は本物のひかるだったらしい。それでひかるの家まで運んでもらって、介抱してもらっていたのだ。
本当にどうしようもない大人だ。まどかは歯噛みする。
ひかるの優しさが、いまのまどかにはどうしようもなく辛かった。
「お風呂湧いてるんだけど、まどかさん、入る? 体もあったまって気持ちいいよ?」
ドロドロとした想いが湧き上がるのを何とか押さえつけようとしていると、ひかるが信じがたい提案を口にした。
「あ、それか、いっしょに入っちゃう?」
ひかるはいつもの軽い調子で言ったに過ぎない。
そんなことは分かっている。だがこのときのまどかは、それを単なる冗談として捉えることができなかった。
「……でください」
「? いま、何て――」
「やめてくださいッ!」
まどかはひかるの手を払いのける。ひかるは何が起きたのかも理解できていない様子で、ポカンとした表情を浮かべている。
「ま、まどかさん……? どうしたの……?」
まどかはひかるを睨みつける。
ひかるは何もまどかのことを分かっていない。だからこんな冗談を言えるのだ。
「……今回のロケットの打ち上げは、中止となりました」
ひかるもある程度は覚悟していたのだろう。その瞳は一瞬揺らいだが、すぐにいつもの真っすぐさを取り戻す。
「……しょうがないよね。次の打ち上げまで、体調に気をつけながら待つことにするよ。数か月後くらいにはなっちゃうかな?」
まどかは大好きだった。ひかるのその、真っすぐで力強い眼差しが。その輝きを伴う眼差しには、まどか自身、幾度となく救われてきた。
だが、いまはその輝きが憎い。
その輝きが完全に消えない限り、ひかるはこれからも永遠にララを追い求め続けるだろう。
すぐ隣に、ひかるを心から慕っている存在がいることを知ることもなく。
だからどうにかして消したい。消してやりたい。
――そう、それでいいんだよ。
突如として現れたひかるの影が、まどかに語りかける。
――わたしだって、本当はもうララのことを諦めたいと思っているんだ。だからまどかさん、お願い。わたしに、ララのことを諦めさせてよ。”人助け”だと思ってさ。
くすくす聞こえる笑い声はひかるの影によるものだと思った。
だがまどかはすぐ、自らの口元が邪悪な愉悦によって歪んでいることに気付く。
その笑い声はほかでもない、まどか自身の口から発せられたものであった。
「……違います」
ついに吹っ切れたまどかは、最後の引き金を引いた。
「違うんです、ひかる。数か月経っても、数年経っても、ロケットは飛びません」
ひかるはまだ諦めていない。それはそうだ。十五年間も諦めずに手を伸ばし続けてきたのに、いまさら数か月遅れたところで心が折れるほどのダメージにはならないだろう。
しかし、それは数か月程度であればの話だ。
もしそれが数年以上先だったら?
いつになるか分からないほど先になりそうだったら?
「――有人ロケット計画は、無期限での凍結となりました」
さすがのひかるも、ただでは済まないはずだ。
「…………え? 凍結?」
「はい」
「な、なんで、そんな、急に……」
実は現場レベルで致命的な欠陥が見つかっていること。今年度中の再発射はまず不可能であり、相次ぐ失敗から政府も野党からの追及を免れず、これ以上のプロジェクトの推進は困難だと考えていること。プロジェクトは白紙に戻るだろうということ。
もちろんそれらはすべてまどかの出任せであり、単なる嘘にほかならない。しかしまどかは有人ロケットのプロジェクトリーダーであり、現場レベルでの強力な指揮権を有している。
もし、そのまどかが”致命的な判断ミスを繰り返したとすれば?”
嘘もまた、真実となる。
なぜ最初からこうしなかったのだろう?
ぞくぞくさせる歓喜と興奮を、まどかはその胸に感じていた。
仕事に邁進してプロジェクトリーダーの座にまで上り詰めたのも、すべてこのためだったのだとすら思えた。
もちろん、そんなことになればまどかの国家公務員としてのキャリアは完全に絶たれることとなるだろうが、いまのまどかにとってはもはや些末な問題に過ぎなかった。
「そ、そんな…………」
ひかるは愕然としている。
それもそのはずだ。夢に近付けば近付くほど、届かなかったときの絶望は深くなる。筆舌に尽くしがたい重苦を味わえば、さすがのひかるも弱音を吐くだろう。そのときこそが、好機となる。
だから、まどかは言い切った。
「つまり、ひかるは当分、宇宙には行けません」
沈黙が舞い降りる。
ひかるはもはや声も出ないようだ。
辛いだろう。苦しいだろう。惨めだろう。
それらはすべて、まどかが感じ続けてきたものに他ならないのだ。
――よかったね、まどかさん。
再び、あの声が聞こえてくる。ひかるの影だ。影はまどかの耳元で囁いた。
――これで、わたしもララのことを諦められるよ。そしたらわたしの体はまどかさんのもの。わたしの心はまどかさんのもの。まどかさんが望んでいた通り、ずーっと、ずーっと、いっしょだよ。
そうだ。ひかるが宇宙に行くことを諦めれば、自分はひかるといっしょに居続けることができる。
たとえば、寝坊したひかるのために朝ご飯を用意する未来だってあるかもしれない。
寝癖をつけながら起きてきたひかるは美味しそうにそれを食べる。ありがとうまどかさん。わたし、まどかさんのご飯がいちばん好き。仕事に行く前にはハグをして、行ってきますのキスをして、夜は二人で居酒屋を巡って、帰宅したらそのままいっしょにお風呂に入って、いっしょにベッドに入って、それで、それで……。
「――まどかさん」
空想の世界に没入していたまどかは、ひかる声に引き戻される。
いよいよだ。いよいよ、ひかるが絶望と諦念に沈んだ言葉を口にする。
闇の奥底で待ち続けたこの瞬間を一言も聞き逃さないよう耳に神経を張り巡らせる。
そして、まどかは息を飲んだ。
「ちゃんと教えてくれて、ありがとう」
泣いているわけでも、怒っているわけでも、諦めているわけでもなく。
ひかるは、どこまでも優しげな微笑を浮かべていた。
「宇宙に行けないことは辛いし、苦しいし、悲しいけど……でも、大丈夫。わたしはまだ、がんばれる。きっと、まだ方法はあるはずだから」
きっと強がっているだけだ。十五年間も目指し続けてきた夢が、叶う直前になって塞がれたのに、平気な顔をして笑っていられるわけがない。
ひかるのことを何も知らない人間からすれば、そう見えただろう。
だがまどかは違った。
十五年間その隣に居続けたまどかには分かる。分かってしまう。ひかるの瞳には、いまだ希望の光が爛々と輝いていることが。
「…………どうして、ですか」
まどかは無意識のうちに尋ねていた。
「どうしてひかるは、そこまでできるのですか」
愚問だ。そんなことは分かりきっている。ひかるの行動原理となっているのはララだ。ひかるはララに会いたいその一心でここまで努力してきた。だから、その答えは決まっている。
ララが、好きだから。
愛しさと切なさを込めて、ひかるはララの名を口にするだろう。そしてその瞬間、まどかは身を二つに引き裂かれることになる。
しかし、ひかるの出した答えはまったく予期していないものだった。
「まどかさんがいるからだよ」
最初。
ひかるが何を言っているのか、分からなかった。
「わたしがこれまでがんばってこれたのは、まどかさんがいたからだよ。まどかさんがいるから、これからも前に進んで行ける。だから、まどかさん――」
ひかるはどこか照れたようにはにかみながら、しかしはっきりとした口調で言った。
「――これからも、わたしといっしょにいてくれますか?」
差し出された右手を見つめながら、まどかはひどく痛感していた。
ああ、そうだ。ひかるはこういう人だった。どれだけ絶望を見せつけられても、目的地にたどり着けるかも分からない地獄の道ですらも、その足で地を踏みしめながら光のように真っすぐ進んでいける人だった。
ひかるは闇に堕ちた自分ごときが引きずり落とせるような存在ではない。
まどかに取れる選択肢など最初から決まっていた。
最初から、まどかがひかるのもとを去るしかなかったのだ。
「まどかさん……?」
困惑したひかるはまどかの内心を汲み取れていない様子だった。
純粋無垢な表情で首を傾げるひかるを見ていると、まどかの胸の奥からは御し難い怪物めいた激情が湧き上がってくる。そうしたまどかの苦悩を、目の前のひかるはいまだに何ひとつ理解していないし、想像すらできていないのだろう。
だが、それならそれでよかった。
少なくとも、いまならまだ、この汚れきった心を見せなくても済むのだから。
「帰ります」
「……え?」
「もう帰ります」
まどかはベッドを降りて一直線に進んでいく。
自分はこれ以上ここにいてはいけない。
何より、ここにいる資格がない。
「いや、帰るって……ちょっと、まどかさん!」
「やめてください! 離してください!」
「急にどうしたの!? 帰るって……まどかさん服着てないし!」
「何が悪いんですか!? 何だっていいじゃないですか!?」
「よくないよ!? ぜんぜんよくないよ!?」
ひかるの手を振りほどこうと躍起になるが、がっしりと掴まれたままビクともしない。宇宙飛行のために常日頃からジムで鍛えているひかるの筋力と、オフィスワークと不摂生を積み重ねてきたまどかの筋力とでは勝負にならないのは当然だった。
「やめてください! ひかるは……いつもそうです……! わたくしの気持ちなんか……何も知らずに……っ」
「ま、まどかさん、お、落ち着いて……?」
「落ち着いていられるわけがないでしょう!?」
早く振り解かなければ。早くこの場から去らなければ。
焦燥感に駆られて必死に逃れようとするが、やはり力の差は歴然だった。手を掴まれたまま押し問答を続けているうちに、まどかはいよいよハラワタに溜め込んできたものを爆発させた。
「なぜそんなふうにわたくしを誘うのですか!? ひかるにはララがいるじゃありませんか! ひかるがいちばん会いたいのはララでしょう!? いっしょにお風呂に入りたいのも、ベッドを共にしたいにも、ホントはぜんぶララじゃないですか! それなのに、キスもできないのに、『わたしの隣にいてくれますか?』って……ひかるとララが仲良くしているところを、隣でずっと見ていろと……? どうして、そんな酷いことが言えるのですか……っ!」
醜く、焦げ腐った、ドス黒い感情の奔出。
止まらなかった。止まるわけがなかった。
「わたくしがどんな気持ちで今回のプロジェクトを進めてきたか分かりますか!? わたくしが仕事をすればするだけ、ひかるの宇宙に行くという夢が、ララに会うという夢が近付くのです! では、わたくしは? 必死にひかるの夢を応援して、毎日日付が変わるまで身を粉にしてプロジェクトを進めてきたわたくしは? 何もありません……! ひかるがララに近付いて行くほど、ひかるはわたくしから遠ざかっていくのです……!」
想いは力になる。それは事実である。
ゆえにその言葉には、十五年分の呪いと憎しみが込められていた。
「……わたくしは、ひかるが宇宙に行きませんようにと、ずっと願っていたんです。ひかるが宇宙に行かなければ、ララと再会しなければ、わたくしのことを見てくれると信じて。先日のロケットの火災だって、わたくしの想いが届いたからなんですよ」
嘲るように嗤いながら、まどかは覚悟した。
これで、すべて、お終いだ。
長い間感じ続けてきた苦しみも、地獄のような日々もようやく終わる。明日からは平穏な日常が待っている。
ひかるのいない、日常が。
「――――っ」
だからこそ、まどかは目を瞠った。
ひかるはまどかの体を抱きしめていた。強く、強く、決して離さないという確固たる意思を宿して。
「……離してください」
「イヤだ」
「……離して、くださいよ」
「イヤだ」
「……お願いですから……もう離して……お願い……だから……」
「ごめんね、まどかさん」
ひかるの腕に更なる力が込められる。
「そのお願いだけは、ぜったいに聞かない」
確固たるその言葉が鼓膜を震わせた瞬間、まどかの頬を一筋の涙が流れ落ちた。
「……何で……どうして……っ……わたくしの心は歪んでるんです……ひかるが宇宙に行かないようにと、わたくしは、仕事だって手を抜いて……」
「嘘ばっかり」
幼い子どもの見え透いた虚言を指摘するようにひかるは言った。
「……嘘なんかじゃ、」
「嘘だよ。それくらい分かるよ。何年いっしょにいると思ってるの」
その言葉ほどまどかにとって残酷はものはなかった。共に過ごしたこの十五年間で、ひかるの理解は、本当に届いて欲しい胸の奥、まどかがひかるに寄せている想いの本質にまでは届いていないのだから。
そこまで考えて、ふと思い至った。
果たして、本当にそうなのだろうか。まどかは知っている。ひかるがああ見えて、誰よりも人のことをよく見ている人物であることを。持ち前の想像力と観察力で様々な本心を見抜いてきた彼女が、十五年間共に過ごしてきたまどかの恋心に気付かないことなどあり得るのだろうか。
「…………」
いや、考えても仕方のないことだ。
仮にひかるがまどかの気持ちに気付いていたとしても、そうでなかったとしても、二人の関係が恋人以上のものに進展していない時点で何ら違いはない。問題はそこではない。まどかのすべきことはひとつしかない。
そう。元より、それしかなかったのだ。
いまさらながらに悟ったまどかは、ついに決心した。
――ダメだよ。
ひかるの背後。声のした方を見ると、あの影が立っていた。
――それだけは、ダメだよ。
まどかはもう影の正体が何であるかを知っている。
それはひかるの影などではない。
”まどか自身の影”である。
まどかが看過した瞬間、影は形を変えて、本来の姿であるまどかの形に変わった。
――だって、それをしたら、ひかるとの関係も終わってしまいます。もういままでみたいに、いっしょにいられなくなってしまいます。
影はやや幼さの残る悲痛な声で制止する。が、まどかは静かにかぶりを振った。
確かに終わるのかもしれない。しかし、終わるからこそまた始まる。
新しい未来を歩めるのだ。
「……ひかるに、ずっと伝えたかったことが、あるんです」
ときに、人は結末が分かっていても進まなければならないことがある。
その先に待っているのが身を引き裂くような結末だと知りながらも、それでもなお前に進まなければならないことがある。
「わたくしは、以前のひかるの髪が、好きでした」
口に出す単語のひとつひとつが刃となってまどかの心を傷つける。
「二つに結んだ髪が歩くたび揺れるのを見るのが好きでした。隣に座ったりして身を寄せ合ったときに当たる、そのくすぐったい感触が好きでした」
影が命乞いをするかのように手を伸ばしてくるのを無視しながら、まどかは言葉を紡いでいく。
「……分かってます。分かってるんです。どうしてひかるが髪を切ったのか。そんなの、最初から分かってるんです。ですが、わたくしは見ない振りをしてきました。いつかまた、ショートカットにするのをやめて、髪を伸ばす日が来るのではないかと。ありもしない妄想をしながら」
でも、とまどかは言った。
自分を鼓舞するように。震える声を必死に絞り出しながら。
「……わたくしはひかるのいまの髪も大好きなんです。だって、ひかるの髪ですから。嫌いになんかなれるわけがないんです。好きにならないはずがないんです。大好きです。大好きなんです」
影は、断末魔の声を上げる間もなく消えていた。
この部屋いるのはもう、まどかとひかるしかいない。
まどかはひかると目を合わせる。その瞳の奥に煌めく大好きな輝きを見つめる。
そして、大きく息を吸って、吐いて、もう一度吸ってから、はっきりと言った。
「ひかるのことが好きです。わたくしと、お付き合いしていただけませんか」
十五年ぶりにまどかは思い出していた。
ニール・アームストロング船長。人類史上初めて月面着陸に成功した宇宙飛行士の名前だ。月面を踏んだ彼は、こう言い残した。
これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である。
「まどかさん……」
「いいんです。聞かせてください」
まどかはもう目を逸らさない。迷わずに、その一歩を踏み出す。
「ひかるの想いを、聞かせてください」
ひかるは唇をきゅっと結ぶと、躊躇いがちに、しかしどこまでも真摯な口調で返事をした。
☆
浴槽のお湯は入浴剤でミルク色に染まっている。太ももに指を滑らせるとすべすべして気持ちいい。冷え切っていた体が芯から温まる。ここのところ湯船にゆっくり浸かる余裕もなかったこともあり、あまりの心地よさに溺れてしまいそうだった。
「湯加減はどう、まどかさん?」
「ええ。いい気持ちです」
薄いすりガラスの向こう側からひかるの声が聞こえる。まどかがお風呂に入っているあいだ、脱衣所で洗濯乾燥機のセットをしていた。
「お風呂っていえばさ。昔にまどかさんと温泉旅館に行ったの、楽しかったな~」
「そうですね……大学生のときに、河童を探しに岩手まで行ったときでしたっけ」
「まどかさん、あの夜はすごかったね」
「え? ええっ? な、何かありましたっけ……?」
「ほら、旅館に置いてあったビデオテープ。昔のB級映画がいっぱいあって、二人で夜通し見続けて」
「ああ……。面白かったですね。わたくしはやっぱりアブラハム監督の初期作品が好きでした。あのレトロなテイストがそそられます」
「ロケットでパジャマパーティーをしたときも、いちばん興味津々だったのはまどかさんだったもんね」
「そうですね。懐かしいです」
まどかの脳裏に十五年前の記憶が蘇る。夢が煌めくドキドキと、世界が広がるワクワクを胸に抱いていた、あの黄金の日々のことが。
ひかるがララのもとに行ってしまうのがイヤだったというのは事実だが、ララやユニたちみんなに会いたいという想いもまた本当のことだ。そうした相反する矛盾した想いを抱え続けたことこそが、まどかの精神を蝕んでいた最大の原因とも言える。
「あの……プロジェクトのこと、本当にすみません」
「まどかさんのせいじゃないよ。まどかさんはこれまで一生懸命がんばってくれてたんだし」
プロジェクトが無期限で凍結されるというのは嘘だったとはいえ、計画の練り直しのためロケットの発射が半年以上遅れるのは本当のことだ。
すべてを包み隠さず説明したところ、嘘をついたまどかのことをひかるは一切怒らなかった。
「それにさ、わたしだって、宇宙に行きたくないって思ったことくらいあるよ」
「……え?」
「怖くなっちゃったんだ。宇宙について勉強すればするほど、ララに会うのがどれだけ難しいことなのか分かったから。わたしが宇宙に行ったところで、本当は叶うはずがない。だったら、宇宙に行く意味なんかないんじゃないかって」
ひかるの声はかすかに震えている。
「何度も、何度も、夢を見たんだ。わたしが宇宙に行って、何事も起こらず、地球に戻る夢。ララには会えなくて、これ以上、ララに会うための方法も見つからなくて、わたしはそのまま歳を取っていく、そういう夢。……わたしにはそれが、ただの夢には思えなくて。実際、そうなっちゃったらどうしようって」
まどかはハッとなる。昨夜、ひかるが雨降る深夜に外を出歩いていた理由。不安な夜には散歩しながら空を見るのが、ひかるの昔からの習慣だったではないか。
自分のことでいっぱいいっぱいで、つい失念してしまっていたらしい。血の滲むような努力と確固たる信念で、日本でたった十二人しかいない宇宙飛行士に選ばれたひかるもまた、好きな人に二度と会えないかもしれないという不安を抱えるひとりの人間に過ぎないことを。
「でも、まどかさんはいつも言ってくれたよね。『ひかるなら、きっと会えます』って。わたしが前に進んで来られたのは、まどかさんがわたしを信じてくれてたおかげなんだ。まどかさんが信じてくれたから、わたしも信じられたんだ」
だから、とひかるは言った。
「これからもずっと、わたしといっしょにいてくれますか?」
「…………ひかるは、本当に、ズルいですね」
まどかは独りごとのようにつぶやいた。
「ララのことが好きなくせに」
「ごめんなさい」
「わたくしとはキスもしてくれないくせに」
「ごめんなさい」
「……わたくしが断れないと、知っているくせに」
扉の向こうから、えへへといつもの笑い声が聞こえてくる。
そう。ひかるにはお見通しなのだ。
「……わたくしにとってのいちばん星はデネブだと言ったことがありましたね」
「うん。覚えてるよ」
「デネブは一等星の中でももっとも光度が強く、夏でも冬でも見ることができます。季節が変わっても燦然と輝き続けるあの星が、わたくしにはひかるのように見えたのです。暗闇でひとり苦悩しているときも、ひかるはいつも、その輝きでわたくしを照らしてくれましたから」
まどかが海外留学を蹴って観星高校に進んだのも、観星大学の航空宇宙科に進んだのも、宇宙開発特別捜査局で国産有人ロケット開発プロジェクトのリーダーになったのも、ひかるの影響なくしては決して選び得なかった道だ。まどかの心の宇宙では常にひかるが輝いていた。
「ですから、お願いしなければならないのはわたくしの方です。……これからもいっしょにいてくれますか、ひかる?」
まどかの問いに、ひかるは間髪入れずに答えた。
「もちろん」
まどかは微笑みをこぼしながら、滲みそうになる涙を無理やりに引っ込める。
感傷に浸るのはまだ早い。
問題はまだ解決していないのだ。
「ひかるはまだ、宇宙に行くことをまだ諦めていない。そうですね」」
「うん」
力強く答えるひかるの声を聞いて、まどかは改めて決意を固める。
「ロケットのことですが、近日中に再発射できるよう局長に掛け合ってみます」
「え……? でも、火災の原因や対策が分からないままだと、やっぱり難しいんだよね……?」
「実は、ひとつだけ心当たりがあるのです。火災の原因について」
確証はないが、それは昨夜の残業中に見つけた一筋の光だった。
「ただ、今回の火災の原因を発見して対策を講じたとしても、トラブルが続いていることには変わりありません。この状況で立ち止まることなく再発射したとしても、百パーセントの安全を約束することはできません。それでもひかるは、わたくしを信じてくれますか?」
「当然だよ」
凛然としたその声には、一点の曇りもうかがえない。
「そもそも『ぜったい』なんて、元々ないんだしさ」
その通りだ。この世に『ぜったい』など存在しない。
ララと別れるときにひかるが口にした約束を、まどかは一言一句、鮮明に覚えている。
『わたし、またきっと行くよ。自分の力で、宇宙に』
きっと行く、とひかるは言った。
あのときですら、ひかるは『ぜったいに行く』とは言わなかったのだ。
「そういえば、ひかるにとってのいちばん星って――」
やっぱり惑星サマーンですよねと言いかけたとき、まどかは異変を察知した。
「? ひかる……?」
呼びかけても返事がない。湯船から出て風呂場のドアを少し開けて覗き見ると、ひかるは脱衣所の壁にもたれながら眠りこけていた。
きっと、ひかるも疲れが溜まっていたのだろう。
起こしてしまわないようそろりそろりと風呂場から出ると、手早く自分の服に着替える。まどかが酔い潰れて眠っている間に、洗濯して乾かしてくれていたものだ。
まどかはひかるの寝顔をじっと見つめる。無防備な唇。奪おうと思えば簡単に奪うことができる。昨日までのまどかがこの状況に直面していれば、そうしていたかもしれない。
だが、いまのまどかは、昨日までのまどかではない。
寝室まで運ぶのはなかなか難儀に思えたが、肩を貸すとひかるは寝ぼけながらも歩いてくれたのでそれほど苦ではなかった。
「お休みなさい、ひかる」
寝息を立てるひかる。メッシュの入った短い髪に触れて、まどかは時計を見た。
時刻は午後十時過ぎ。”タクシーなしでも出勤できる時間”だ。
まどかは書置きを残す。テーブルの上にはラップに包まれたおにぎりが置いてある。好きなときに食べて、とひかるが準備しておいてくれたものだった。
「……後は、自分の仕事を全うするだけですね」
おにぎりをひとつ掴んで家を出る。スマートフォンを確認すると一件の着信が入っている。
画面に表示された名前を見て、まどかは背筋を伸ばした。
電話相手の名前は、香久矢冬貴。
まどかの父親にして、この国の総理大臣である。