十五年間ひかるさんに恋心を寄せ続けたまどかさんが、30歳で失恋する話です。
(ひかララ前提大人ひかまど/百合/GL/前・中・後編を含めて5万字程度)
あらすじ
香久矢まどかは星奈ひかるに恋心を寄せていた。
宇宙開発特別捜査局に就職し、「宇宙に行く」というひかるの夢を叶えるべく身を粉にして働く日々だったが、ひかるの本当の夢は羽衣ララに会うことだった。
その夢が叶えば、ひかるはまどかの元を離れてララと結ばれてしまう。まどかはいつしか心の隅で「ロケットなんて飛ばなければいいのに」と思うようになっていた。
すると、まどかの想いが届いたかのようにロケットの打ち上げは延期を繰り返し、ついには原因不明の火災が発生する。
自己嫌悪に陥るまどか。その前に現れたのは、ひかるの形をした「影」だった。「影」はまどかに甘い声で囁きかける。「これでわたしを独り占めできるね」と……。
暗闇の中で藻掻き続けたまどかが、最後に一筋の光を見つけるまでの物語。
【2035年1月17日水曜日(残り11日)】
三度目のロケットの打ち上げ延期が確定したとき、香久矢まどかは自分の想いが届いたのだと思った。
一度目はコンピュータのプログラムにミスが見つかったため、二度目は配管に穴があり搭載していた窒素ガスが漏れてしまったため、そして今回はロケットの発射台の開口部で原因不明の火災が発生したためだ。事が起きたのは昨夜。打ち上げ予定日の前日のことだった。
原因究明と対策を進めているところだが、何せ三度目の延期である。安全性についての疑念は強まっていたし、スケジュールも圧迫している。今年度中の打ち上げは諦め、改めて計画を見直すべきだという意見も出ている。
「しかたないよね」
宇宙飛行士は宇宙に旅立つ前に遺書を書くという。それを使わずに済んでよかったと、あくまでも星奈ひかるは前向きに言った。
「まどかさんは大丈夫? 眠れてる? お仕事、大変だよね……」
「……わたくしは大丈夫です。それより、早くプロジェクトを再開できるように、頑張りますので」
ひかるは心配そうに声をかけたが、その励ましは的を射たものではない。
もちろん、連日連夜の日付が変わるまで及ぶ残業によって睡眠時間が削られていることは事実だったが、まどかの心労を著しいものにしている最大の原因は別にある。
ひかるは、気付いてはくれないのでしょうね。
ひかるの瞳には、懸命に笑顔を作る一人の女が映っている。
それがひどく醜い怪物のように見えて、まどかはそっと目を逸らした。
【2032年11月23日火曜日(残り3年と2か月と5日)】
その日、まどかはひかるとキスする夢を見て目を覚ました。
寝起きだというのに体が熱い。妙に冴えた目でスマホを確認すると、ひかるからメッセージが入っていた。
『まどかさん、お誕生日おめでとう!』
送信時間を見てみると、そのメッセージは午前0時0分に送られている。
ひかるは自分の誕生日を覚えてて、誰よりも早く祝ってくれた。宇宙まで飛んでいってしまいそうな喜びを覚えると同時に、すぐ気付けなかったことを悔やむ。昨夜は珍しく日付が変わる前に帰ることができたが、家に着くなり気を失うように眠っていた。
ベッドの中で慌てて返信を送る。それが終わると、ふう、と一息ついて、改めて自分の唇に指を当てる。
「……柔らかかった、ですね」
一説によると、夢は無意識化に潜む願望の表出だという。
意識するとますます恥ずかしくなって、まどかはぶんぶんと頭を横に振る。改めてスマホを開き直す。見ると、他にも何人かからお祝いの言葉が届いている。まどかは順次返信をしていく。思わずくすっとしたのはえれなからのメッセージだ。『誕生日おめでとう!』の文のあとにこんなことが書かれている。
『日付変わった瞬間におめでとうしたかったのに、日本時刻の計算間違えちゃった……!』
えれなはいま、通訳者として世界中を駆け巡っている。
大切な友達が長年の夢を叶えてキラキラと輝いている。そのことを、まどかは自分事のように誇らしく思っている。
「……そろそろ、準備しないと」
時刻は朝の五時。今日はひかるとのサシ飲みだ。何としてでもあまり残業せずに帰りたい。早めに出勤して、溜まっている仕事を少しでも片付けよう。
ひかるとは少なくとも週に一度以上のペースで会っているので、もはや特別なことでもないが、なにせ今日はまどかの誕生日だ。
二十七歳。ひかると出会ってから、もう十二年になる。
ひかるは毎年欠かさずにプレゼントをくれている。今年もきっと準備してくれているのだろう。それが楽しみで、嬉しくて、自然と頬が緩む。
まどかは鼻歌混じりにベッドから降りて洗面所に向かった。顔を洗おうとしたとき、ふと手を止めて鏡を見る。
「…………」
唇にはまだ、ひかるの感触が残っている。
まどかは鏡を見つめて逡巡すると、おそるおそる、その唇に舌を這わせた。
☆
「まどかさん!」
キョロキョロしていると、奥のカウンター席から声がする。ひかるが大きく手を振っていた。
まどかは頬を緩めながらひかるのいる席へと向かう。
「すみません、お待たせしました」
「ううん! さっきまで外を散歩してたんだけど、今日も星が綺麗だね~」
仕事用のバッグを置き、慣れた調子で飲み物を注文していく。まどかはビール。ひかるは梅干しサワー。最初に頼むのはいつもそれだ。それから枝豆とタコわさ、ホッケを頼んだ。
「定時で上がりたかったのですが、いまの部署に来たばかりで、どうしても仕事が進まなくて……」
「それでもいつもより早いよ。まだ八時前だし、明日は土曜日だし、今日はいっぱい飲も~!」
「ええ、飲みましょう!」
さっそく飲み物とお通しが来て、まどかはひかるとジョッキを合わせて乾杯する。
「まどかさん、お仕事はどんな感じ?」
「異動して二か月が経って、やっと周りも見えてきました。多忙といえば多忙ですが、ロケット開発のプロジェクトに携われてとても嬉しいです」
「プロジェクトリーダーなんだっけ?」
「いまはまだ、サブリーダーですよ」
「それでもすごいよ! えれなさんもまどかさんも、みんな夢を叶えてるんだもんね! キラやば~!」
自分の未来を自分で決めると父親に宣言したあの日から、まどかは自分の道を歩みつづけてきた。ときに迷いながら、ときに挫けながら、それでも必ず、最後には立ち上がって。
今年の十月、まどかは局内異動を経て、かねてより希望していた国産有人ロケット計画のプロジェクトメンバーに迎え入れられた。
一般的な異動月である四月ではなく十月に異動となったのには理由がある。プロジェクトリーダーをしていた職員が急遽退職してしまい、欠けた人員を埋めるために声をかけられたのだ。
国家公務員という組織においてまどかはまだまだ若輩者であったが、入庁以来、八面六臂の活躍をしてみせ、職員全体の五パーセントしか得られない『評価S』を毎年のように得ている期待の大型新人だった。今年で二十七歳になるまどかがサブリーダーをすることについて、異を唱える者は誰ひとりとしていなかった。
「あ~~! わたしも夢、叶えたいな~~~~!」
「ひかるなら、大丈夫ですよ」
「そうかな……。なんかさ、もうちょっと結果が出るんだって思うと、食事も喉を通らなくて……」
「そう言いながら、さっきからぐびぐび梅干しサワーを飲んでますけど?」
「あっ、バレちゃった」
くすくす笑い合うが、まどかはちゃんと理解している。表面上、ひかるは明るく振舞っているが、内心では幾ばくかの不安を抱えていることに。
それもそのはずだ。
宇宙に行くこと。それがひかるの十二年前からの夢だ。
ひかるはその夢を叶えるため、大学卒業後は《National Space Research Agency of Japan》――NASRA(宇宙科学事業団)に就職しながら宇宙飛行士を目指して日々勉強していた。
宇宙飛行士になるためには、まず宇宙飛行士候補者の選別試験に合格する必要がある。
倍率にしておよそ五百倍。一年間に及ぶ難しい試験をくぐり抜け、最終面接までたどり着いたひかるは、現在結果を待っている最中であった。
長年の夢の合否の結果が、ついに出る。ソワソワしない方が難しい。
まどかが仕事を終えるまでのあいだ、ひかるは夜道を散歩していたと言っていた。不安な気持ちがあるとき、ひかるは空を見上げながら外を歩く癖がある。
まどかはそのことを知っていた。だから言った。
「ひかるなら、きっと受かりますよ」
気休めなどではない。本心からの言葉だった。
瞳が揺らぎ、陽光に照らされる水面のように輝く。
「……うん。ありがとう」
「でも、ひかるはひとつ勘違いをしていますよ?」
「……? 勘違い?」
「わたくしの夢は、まだ叶っていません。だってわたくしの夢は、ひかるの夢を叶えることですから」
「……まどかさん」
ひかるは人差し指で目尻を拭うと、満面の笑みを浮かべた。
「そうだよね。まどかさんがいてくれるから、わたしも安心。箱舟に乗った気分」
「箱舟だと、乗ってない人は皆さん死んでしまいそうですが……」
「あっ、確かに」
ふふふっ、と部屋に二人分の笑い声が響く。
ひかるが高校生になったころだ。まどかに対して敬語を使わなくなったのは。
特に何かキッカケがあったわけではないし、まどかの方からお願いしたわけでもない。自然の成り行きだった。まどかとしても、嫌な気分にはまったくならなかった。
むしろその逆だ。これはひかると自分だけの関係性なのだと、まどかの心は喜びに満ちるのだった。
「そろそろお開きにしましょうか」
楽しい時間は過ぎるのも早い。気付いたときには一日が終わりそうな頃合いだった。
しかしひかるはまだ飲み足りないようだ。
「もしよかったらさ、このあとうちで飲み直さない?」
「いいですね。ぜひ飲みましょう」
「じゃあ、今日はわたしの家でお泊まりパジャマパーティということで」
「え、泊まりですか?」
「うん! 朝まで飲み明かそう!」
咄嗟に返事できずにいると、ひかるは「だめ?」と無垢な目で問いかけてくる。
「だっ、ダメではありません!」
「やったー! キラやば~! 楽しみ~!」
無邪気に喜ぶひかるとは裏腹に、まどかの心臓は早鐘を打ち始める。
もちろん分かっている。それが単に、血中を巡るするアルコールのせいではないことなど。
ひかるとお泊まり。初めてではない。二人だけで旅行することも何度もあったし、互いの家で明け方まで飲むことだって珍しくなかった。ただ最近はひかるも宇宙飛行士候補者試験でバタバタしていたのもあったし、まどかも仕事が忙しかったため、そういうことをするのは久しぶりだった。
「では、一度家に帰って、シャワーを浴びたりしてからそちらに行きますね」
「直接うちに来ちゃえば? シャワーくらい貸すよ?」
「いえいえ、家もすぐそこですし」
「え~。まどかさんといっしょに入りたいな~」
「……ひかる、酔っ払ってますね?」
「酔ってないよ~」とひかるは朗らかに言うが、そういう冗談はやめてほしい。もしかしたら冗談ではないのではないか、と期待してしまうから。
「いずれにしても、着替えは取りに行きたいので……」
まどかは言い訳するようにそう答えると、伝票に手を伸ばして店員を呼ぶ。クレジットカードを店員に渡そうとするが、それを押しのける手があった。ひかるが自分のカードを差し出していた。
「も~。今日はまどかさんの誕生日なんだからね?」
「で、ですが……」
「それに。いつもまどかさんに多く出してもらっちゃってるし、こういうときくらいは出させてよ」
こういうとき、ひかるは頑固だ。どれだけ食い下がっても決して引かないことを察して、まどかは自分のカードを財布に戻す。
「では、お言葉に甘えて……」
「うんうん。まどかさんは、もっと甘えていいんだよ」
じゃあ行こっか、と言って、ひかるは自然な動作で手を差し伸べる。
一瞬何をしているのか分からなかったまどかも、すぐに理解する。
「あ……」
「? どうかした?」
「い、いえ……」
伸ばされた手を、躊躇いがちに握る。そこにはどんな意図が含まれているのだろう。
ひかるはまどかの手を引いて、そのまま店の外までエスコートしてくれる。冬の空気がまどかの体の通り抜けていくが、不思議と寒さは感じない。
きっと、手から伝わる温もりのおかげだ。
その手を握っていれば、どこにだって行けるような気がした。
駅に着くと、ひかるは定期券を探すためにまどかの手を離した。改札を通り抜けても、離された手が再びくっつくことはない。電車に揺られているあいだ、まどかは温もりの残滓を確かめるように指で何度も手のひらを撫でつづけた。ひかるには見つからないように、こっそりと。
自宅の最寄駅に降りたとき、少し期待しながらひかるの手を見る。その視線に気付いたのかは分からないが、ひかるは再びまどかの手を取ってくれた。
「まどかさんの手、冷たい」
「ひかるの手は、温かいですね」
「じゃあ、温めてあげるね」
にぎにぎ、とひかるは微笑みながらまどかの手を揉むように握る。道行く人から見れば、自分たちはどのような関係に見えるだろうか。仲のいい友人? それとも……?
雑談しながら歩いていると、あっという間に自宅の近くまで辿り着く。このときばかりは、自宅が駅チカの物件であることを悔やむ。もっと遠ければ、それだけ長い間、手を繋いでいられたのに。
ひかるはまどかの手を離すと、マンションのオートロックを解除する。重たいドアを大きく開けてまどかを中に入れた。
「じゃあ、あとでね、まどかさん」
「ええ。すぐに行きますので」
そう言って、ひかるは一階にあるその部屋に入っていく。ガタン、とドアが閉まる。
「……ふぅ」
まどかは自分の頬をぺしっと叩いて、エレベーターのボタンを押した。
まどかが引っ越しをしたのは大学二年生になる四月のことだ。大学に入学してしばらくは新しい環境に慣れる必要があった。だから入学と同時にではなく、二年生になってから独り暮らしを始めた――
というのは、表向きの理由である。
本当の理由は、ひかるが大学入学に合わせて独り暮らしを始めることを知っていたからだ。独り暮らしをするなら、ひかるがどこに住むのかを知ったうえで引っ越しをしたい。できるだけ近くの場所に住みたかった。
そういうわけで、ひかるがこのマンションに引っ越すと決めた直後に、偶然を装ってまどかも同じマンションに引っ越したのだ。
大学卒業後、社会人の住む場所としてはやや手狭にも感じられるこの部屋から引っ越さなかったのも、同じ理由だ。ひかるがこのマンションに居続ける限り、まどかも引っ越すつもりはなかった。
自宅に戻ったまどかはまずシャワーを浴びた。お風呂を上がった後はすっぴんの顔と睨めっこしながら、目の下にできていたクマをコンシーラーで消しつつ、全体的にぱっと見では分からない程度の薄いメイクをしておいた。
ひかるの家までは徒歩一分もかからないとはいえ、パジャマ姿で外に出るのは抵抗があった。かといって、せっかくひかるの家でパジャマパーティーをするのにジャージ姿というのも可愛げがない。まどかはラフな格好に着替えると、パジャマやお酒、おつまみを鞄に入れてひかるの家に向かった。
☆
「ようこそ、まどかさん!」
「お邪魔します」
間取りはまどかの部屋と同じ。大学生の頃から入り浸っているので、勝手はよく知っている。案内されることもなく、まどかは洗面所で手洗いを済ませる。いたるところに貼られている宇宙やUMAのポスターはもう何回見たか分からない。
「わたしこれからシャワー浴びてくるから、部屋で待っててもらってもいい?」
「まだ入っていなかったのですね」
「ごめんね、ちょっと片付けしてて」
「ぜんぜん大丈夫ですよ。わたくしはひとりで飲みながら待っていますので」
鞄から缶ビールを取り出すと、「それはダメだよ~!」とひかるが唇を尖らせる。
「ふふふ。冗談です。ちゃんと待ってますから、ゆっくり入ってきてください」
「あ、まどかさん、もうパジャマに着替えちゃう?」
「? そうするつもりですが……」
「じゃあ、先に渡しちゃおうかな~」
ひかるは鼻歌混じりにクローゼットから箱を取り出す。紫の包装用紙とピンクのリボンでラッピングされたそれは、一目で何なのか分かってしまう。
「まどかさん、お誕生日おめでとう!」
ひかるは満面の笑みを浮かべて言う。予想していたとはいえ、まどかは嬉しさのあまり思わず抱き着きそうになった。その衝動をギリギリのところで留めると、感謝の念を伝えて箱を開封していく。
「これは……」
「えへへ。まどかさん、お仕事のときはフォーマルなパンツスーツでキマってるけどさ、こういうかわいい格好も似合うから、いいかなって」
入っていたのは、薄紫のネグリジェ。ふわふわとした肌触りとフェミニンなデザインで、特に二十代の女性に人気のあるブランドのものだ。
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
テキパキと仕事をこなすまどかは、職場の部下からもカッコいいと言われることは度々あるが、かわいいと言われることはあまりない。ひかるが自分の女性的な部分を認めてくれることは、素直に嬉しい。
「では、あとでさっそく着てみますね」
「? いま着ないの?」
「……ひかるがお風呂に入っているあいだに着替えます」
「え~! いますぐ見たい~!」
「早く見たかったら、早くシャワーを浴びてきてください」
「む~。まどかさん厳しい……」
じゃあすぐに入ってきます、と言ってひかるは脱衣室に消えていく。
まどかはほっと息をつく。着替えているところは見られたくなかったので、戻ってこないうちに手早く服を脱いだとき、ひょこっとひかるが顔を出した。
「まどかさ~ん」
「ひゃいっ!?」
驚きすぎて変な声が出る。まどかは慌ててひかるに背を向けた。
「適当に本とか読んでもらってても大丈夫だからね~」
「は、はい……分かりました……」
不意打ちで出てくるのはやめてほしい。
ひかるがお風呂に入っていったのを確認して、まどかは急いでもらったパジャマを着ていく。鏡の前に立ちながら裾をひらひらさせたりして変なところはないかと確認する。
パジャマはかわいい。客観的に見てもそう思う。
では自分は? ひかるの目に、自分はかわいく映っている? 綺麗に見えている?
ひかるがお風呂から上がって自分を見たとき、最初にどんな反応を示すだろうか。今更ながら、このタイミングで着替えたことを後悔する。ひかるがお風呂からあがって来る直前に着替えていればよかった。そうしていれば、ドキドキする時間は短くて済んだのに。
少しでも意識を他のものに向けようと、まどかは部屋の中を見回す。ひかるらしい部屋。本棚には宇宙の本だけではなく、専門書の類もあれば英語やロシア語の辞書も入っている。すべては宇宙飛行士になるためだ。ひかるはこの十二年間、ひたすら夢に向かって進み続けてきた。それら努力の証がこの部屋にはしっかりと残されている。
まどかはひかるの言葉に従って本棚をチェックしていく。
とはいえ、ひかるが読んだものは大方既に読んでいるので目新しいものはない。
ぎっしりと本の詰まっている本棚から星座の図鑑を引き抜いたとき、挟んでいた何かが落ちた。
ララの写真、だった。
「あっ……」
まどかは慌ててそれを拾い上げる。写真の中のララはまどかの記憶のララと同じ姿をしているが、本物のララは十五年前よりずっと成長しているはずだ。
ララはいま、何をしているのだろう。
――そんなの、考えちゃダメだよ。
ひかるの声が聞こえたような気がして、まどかは周囲を見回す。
が、ひかるはまだ戻っていない。
空耳かと思い直して、まどかは図鑑の中にララの写真を戻した。
「まどかさ~ん」
「ひゃいっ!?」
慌てて図鑑を体の後ろに隠す。振り返るとパジャマ姿のひかるがいた。
ロケットの描かれたピンク色の半袖のティーシャツ。着心地の良さそうな短パンから覗く脚にはしっかりとした筋肉がついていて、お風呂上がりで上気した頬はドキッとするほど魅惑的だった。
「あっ……」
じーっとひかるの視線が注がれる。生唾を飲んでいると、ひかるはニコッと笑った。
「キラやば~! まどかさん、そのパジャマ、すっごく似合ってるね!」
「そ、そうですか……?」
「うんうん! すっごくかわいい! キラやば~!」
まどかはふたつの意味で安堵する。ひとつは写真のことがバレていないこと、もうひとつは自分の姿がひかるの目にはかわいく映っていること。だが、どうして写真を隠そうとしているのか、自分でもよく分からなかった。
ひかるは一直線に歩み寄ってきたかと思うと、まどかの肩に触れてくる。
「ひゃっ……ちょっ、ちょっとひかる……?」
「肌触りも気持ち~! キラやば~!」
どうやらふわふわしたネグリジェの感触を楽しみたかったようだ。ひかるはまどかの体をさすさすと撫でまわす。
「ねえねえ、触ってもいい?」
「ひかる、そういうのは触る前に訊くものですよ……?」
「あはは。ごめんごめん」
ひかるはしばらく質感を堪能すると満足したようだ。
「そしたら冷やしてるお酒、持ってくるね~!」
そう言って、キッチンの方に向かった。
待っている間、まどかは図鑑を元の場所に戻そうとする。が、焦っているせいか、パンパンに詰められている本棚に入れることがなかなかできない。
まずい。早く何とかしなければひかるが戻ってくる。
焦燥感に駆られたまどかはいったん写真を別のところに隠そうと、自分のバッグの中に突っ込んだ。ひかるはそれから間もなく戻ってくる。
「はい、まどかさんのビールだよっ」
「あ、ありがとうございます」
「じゃあ、カンパイしよう!」
ええ、とまどかはうなずく。後ろ髪を引かれるような気持ち悪い感覚が残っていたが、とりあえずいまは飲もう。写真を戻すのはあとでもできる。そう思って、互いに持っている缶と缶を軽くぶつけ合う。
「まどかさんのお誕生日とこれからの幸せを祈って、カンパイ!」
居酒屋でも既に飲んでいたこともあり、酔いの回りは想像よりも早かった。
宅飲みを始めて一時間ほどしたころ、おつまみに手を伸ばした拍子に缶に手をぶつけてしまう。倒れた缶の中にはまだいくらかお酒が残っていたようで、着ていたパジャマやカーペットに零してしまった。
「ひゃっ」
「まどかさん、大丈夫?」
「え、ええ……そそっかしくてすみません……カーペットにも少し零れてしまいました……せっかくもらったネグリジェも……」」
「ううん、カーペットは大丈夫。それより、パジャマは脱いで水につけておこっか」
プレゼントを汚してしまったことに気を落としていると、ひかるはタンスからティーシャツと短パンを取り出した。シャツにはロケットのイラストが描かれている。いかにもひかるらしいチョイスだ。
「はいどうぞ。わたしのパジャマ、貸すからさ」
「あ、わたくしは自分のパジャマが……」
言いかけて、ハッとなる。
まどかはわざとらしくバッグの中を探ると、
「……そう思ったのですが、すみません、忘れてしまったようです。やっぱり貸していただいてもいいですか?」
「もちろん!」
まどかはパジャマを受け取ると、そのまま脱衣所に行こうとした。
「? まどかさん、どこ行くの?」
「洗面所、お借りしますね」
「別にここで着替えてもらっても大丈夫だよ?」
「い、いえ……ついでにパジャマを水につけてきますので……」
言い残して、そそくさと洗面所に向かう。
洗面所に入ってドアを閉めると、ふう、と一息く。運動不足と日ごろの不摂生でついた余計な肉を見られるわけにはいかない。着ていたネグリジェを脱いで、水につける。そしてさっそくひかるから借してもらったパジャマを着てみる。わざわざパジャマを忘れたと嘘をついた理由はひとつ。 ひかるの服を着たかったからだ。
しかし……
「この姿を見たら、ひかるはどう思うでしょうか……」
心がそわそわして落ち着かない。ひかるのパジャマはまどかには大きすぎて、胸元が大胆にあいてしまっていた。鏡をチェックしながら、胸元を手で隠してみたり、シャツを引っ張ってみたりする。やっぱりもう少し小さめのパジャマを借りようか。でも貸してもらっている手前、わがままを言うのは気が引ける。顔が赤いのはお酒のせいだ。そういうことにする。
リビングに戻るとひかるの姿が見えなかった。風に揺れるカーテンを見咎めたまどかは、ベランダの手すりに肘を置きながら佇んでいるひかるを見つけた。
「あ、まどかさん」
たったいま気付いたというようにひかるが振り向く。チラっと胸元に視線を向けられたのを感じたような気もするが、特に話題に触れられることはなかった。その自然な反応を見て、まどかは安堵すると同時に少し残念に思った。
「外を見ていたのですか?」
ひかるはうなずいて手招きをする。
ベランダには冷たい夜風が吹き込んでいたが、酒で火照った体にはむしろ心地よく思えた。
「今日のお月様も綺麗だな~!」
闇夜の空には満月に近い月が浮かんでいる。ちょうど、風が吹いて雲の合間から月が顔を覗かせたところだった。
「そういえばまどかさん、昔は『観星中の月』だなんて呼ばれてたよね」
「そ、その話はやめてください……」
「え! いいじゃん! まどかさんはいまもお月様だよ~!」
「もう、ひかるはそうやってからかって……」
まどかは懐かしさと同時にくすぐったいような感覚に襲われる。学生時代の記憶というのは得てして羞恥心を刺激されるものが多い。
「ねえ、まどかさんは、いちばん星がどの星のことか知ってる?」
「宵の明星、すなわち日没後にひと際明るく輝く金星のことを指すと思っていましたが、違うのですか?」
「ううん。その通りだよ」
でもね、とひかるはくるんと体を回してまどかの方に向ける。
「いちばん星っていうのは、別に金星に限らないと思うんだ。だって、その人がいちばんにどの星を見つけるかなんて、その人それぞれだから。夜になったとき、いつも真っ先に探しちゃう星。それが、その人にとってのいちばん星だって考えても面白いんじゃないかなって」
なるほど、とまどかは思った。
「そのように考えると、わたくしにとってのいちばん星はデネブかもしれません」
「デネブ?」
「一等星の中でもっとも光度の強い星。夏の大三角形として有名ですが、夏でも冬でも、どれだけ環境が変わっても明るく輝くその星が、わたくしは好きで、いつもいちばん探してしまいます」
地球から見える星の中でも桁違いに大きいその星は、およそ八千年後には北極星になるともいわれている。北極星といえば、古代より人々の道しるべとなってきた星座でもある。
そんなデネブを、まどかはひかると重ねていた。
暗闇の中、ひとり苦悩しているとき、ひかるはいつもその輝きでまどかを支えてくれた。
たとえば、高校生になって自分の将来について悩んでいたころのことだ。
自分の未来は自分で決める。そう決意していたものの、まどかは将来のことで悩んでいた。自分が大人になって何をしたいのか、その内容によっては海外留学もひとつの手段としてあり得るとは思っていたが、肝心の『やりたいこと』が何なのか、高校生一年生のまどかはまだ見つけられずにいた。
そんなとき、まどかに輝きを見せてくれたのはひかるだった。
ひかるは決してまどかに『こうすべき』『ああすべき』だというアドバイスはしなかった。ただ隣に寄り添って、自分の好奇心を刺激するたくさんの『キラやば~』なエピソードや知識をまどかに聞かせてくれただけだ。
ひかるの話を聞いているのは楽しかった。ひかるの笑顔を見ていると胸が破裂しそうなほどの幸福でいっぱいになって、この時間が永遠に続けばいいのにと思った。
そして、まどかは気付いた。
自分の心をドキドキさせるのはどういう話をしているときなのか。
否、“誰と話しているときなのか”、ということに。
ひかるといっしょにいたい。
ひかるのことをもっと知りたい。
誰よりも近くでひかるの輝きを感じていたい。
十六歳のまどかはそう思った。
そして、その想いは二十七歳になったいまでも変わっていない。
「あの星座の名前、覚えてる?」
「ひかるの作ったオリジナル星座。イエティ座ですね」
「さっすが、まどかさん!」
「何度も二人で天体観測しましたからね」
「じゃあ、あれは覚えてる? 二人で作った星座」
「あれは……」
「あれは?」
「……ひかまど座、ですね」
「えへへ~。正解!」
「……声に出すと恥ずかしいですね」
照れながら言うと、ひかるは懐かしげな声を出す。
「高校生のときに作った星座だよね。二人でしょっちゅう天体観測に行ってたから、わたし、おじいちゃんから恋人と遊んでるんじゃないかって疑われちゃったんだ。相手がまどかさんだって分かったら、おじいちゃん、安心したのか、それ以降は何も言わなくなったけど」
「……わたくしも、恋人と不道徳な遊びをしているのではないかとお父さまから疑われましたよ。わたくしが否定しなかったので、香久家は一時期大変でした」
「ホントのこと、言わなかったの?」
「……いちいち釈明するのもイヤだったので」
もちろんそれは話の矛先から逃れるための弁明にすぎず、実際にはひかると本当に”そういう関係”になりたかったからに他ならない。
「そういえばひかる、聞いてください。この前、お父さまからお見合いしないかって言われたんですよ」
「ええ~!? まどかさん、何て返事したの!?」
前のめりになりながらうんうんと相槌を打つひかるに、まどかは至極真面目な顔で答えた。
「お受けします、と」
「…………え?」
まどかは半分ほど残っていたビールを飲み干し、新しい缶を開ける。
「ですから、お見合いの話はお受けしたんです。わたくしも、そろそろ結婚したいと考えていましたし、やる前から決めつけはせず、経験してみようと思いまして」
まどかは喉を鳴らしながら缶ビールを飲む。すぐに三分の一がなくなる。テーブルに置くとき、勢いを消しきれず、ガタンと大きめの音がした。
「……な、なんか、意外かも」
ゆっくり顔を上げて様子をうかがう。
ひかるは困惑しているようだ。口角こそ上がっているが、目元は笑っていない。
「でも、何事も決めつけはなしだもんね。お見合い、うまくいくといいね」
まるで自分を言い聞かせるように笑うひかるを見て、まどかはいよいよ堪えきれずに吹き出した。
「ぷっ……くっ、くっ、くっ」
「え? ええっ!? 何で笑ってるの!?」
「だっ、だって、ひかるの驚いた顔が、面白くて……ぷふっ」
「え~!? ちょっと、まどかさん! いまの話は嘘だったの!?」
「当たり前じゃないですか。自分の未来は自分で決めますので」
ひとしきり笑って、まどかは自分の胸が温かな充足感で満たされていることに気付く。
さっき見せた、ひかるの複雑そうな顔。
お見合いすると言ったことに対して、ひかるが真っ先に見せた表情が困惑のそれだったことは、まどかに少なからずの自信を与えていた。
その後もしばらく天体観測を楽しんだ後は、再びお酒とおつまみを口に運びながら二人で何てことのない会話を楽しんだ。
日付も変わりそうになったころ、トイレから戻るとひかるはベッドの上で爆睡していた。
手足を大の字にして幸せそうな顔を浮かべている。何か良い夢でも見ているのだろう。揺さぶっても、名前を呼んでも、起きる気配はない。すうすう寝息を立てている。
まどかはいつも使わせてもらっている客人用の布団を踏み越えると、ひかるのそばまで近付き、その寝顔をじっと見つめる。アルコールによる作用も相まって、体はどうしようもなく火照り、鼓動が高まっていくのを感じる。離れようとしても視線が縫い付けられてしまって離せない。
大人になったひかるは、見違えるほどカッコよくなった。
久しぶりに会った中学時代のクラスメイトがいまのひかるを見てそう言ったとき、まどかはキッパリと否定した。
『いいえ。ひかるは昔からカッコよかったですよ』
そう。ひかるがカッコよかったのは昔からだ。
身長も百七十五まで伸び、その天真爛漫な表情の裏側に大人びた憂いを帯びるようになったのは、あくまでも表面上の変化に過ぎない。内面の奥深くに昔から存在していたカッコよさが、成長とともに表出したというだけのこと。だからまどかはひかるが昔と比べて大きく変わったとは思わない。
ただ、事実としていまのひかるがカッコいいということに異論を唱えるつもりはない。そんなひかるに自分が長い間惹かれつづけていることも自覚している。
ふと、まどかは今朝に見た夢を思い出した。ひかるとキスする夢だ。
――いまなら、何をしても、起きないよ。
心臓が跳ねる。
辺りを見回すが、もちろん部屋にはまどかとひかるの二人しかいない。また空耳か。だがまどかの秘めた願望そのものだった。
見えない糸に操られるように前かがみになると、背丈に合っていない大きめのパジャマが重力に従って垂れ下がった。まどかは自分の唇を舐めて湿らせると、前髪をかきあげ、そのままゆっくり近付いていく。
「……ひかる」
ひかるは動かない。閉じられた瞼が微かに動いたようにも見えるが、よくわからない。ただ、いずれにしてもいまならひかるは何をしても起きないだろう。
たとえ、唇をくっつけたとしても。
ひかるとキスする夢。単なる願望の表出ではなく、ある種の予知夢だったのかもしれない。
重力で垂れ下がったパジャマの表地がひかるの体に触れる。心臓がうるさい。勝手にこんなことをしてはダメだ。それは分かっている。でも、体が言うことを聞かない。ひかるの唇まではあと数センチしかない。
まどかはいままで胸に秘めてきた想いを口にしようとして、やめた。少しでもひかるが起きてしまう可能性は排除したかったためだ。
まどかは目を開けたまま、吸い込まれるようにして、艶やかに輝くその唇に自分のものを重ねようとした。
そのときだった。
「――大好きだよ」
ひかるの口から発せられたその言葉は、まどかの動きを止めるには十分なものだった。
もしかしてひかるは起きているのだろうか? 寝たふりをしているだけなのだろうか? だとすれば、その言葉が向けられているのは――
期待が胸を膨らませ、破裂しそうになった次の瞬間、まどかは無情な現実を知ることになる。
「ララ」
ひかるが口にしたその名前は、二文字。
まどかもよく知る、とある異星人の名。
時計の針の音。エアコンの排気音。外から漏れ聞こえてくる犬の遠吠え。
耳に入るのはそうした微かな音だけだ。だがいまのまどかにとっては耐えがたいほどやかましい。
「……会いたかったよ」
それで、寝言は終わった。
ひかるの目尻に薄っすらと浮かぶ涙を見咎めると、まどかは夢遊病者のようにふらふら立ち上がる。後退りしたとき、何かにつまづいて部屋の中で転んで尻餅をついてしまう。見ると、バッグから星座の図鑑が飛び出ていた。
さっきも見ていたララの写真がページの間からはみ出ていることに気付き、まどかは図鑑を開く。
写真が挟まっていたのはベガとアルタイルのページだった。二つの星は織姫と彦星としても知られている。七夕伝説のモチーフとなっている二つの星は、互いに想い合う恋人同士であったが、あるとき神様によって離れ離れにされてしまう。
織姫と彦星。無意識のうちにひかるとララの顔が浮かび、まどかは故意に思考を停止させる。だがララの写真を図鑑の中に戻そうとしたとき、手が止まった。
写真に顔を近付ける。凝視すると、ララの映ったその写真はやけに手垢にまみれていることに気付いた。
まるで、”何度も何度も手に取って見ていたかのような汚れ方”だった。
「……ララ」
いよいよ、まどかは気付かない振りができなくなる。
ひかるの本当の夢は、宇宙に行くことなどではない。
ララに会う。ただ、それだけのことなのだ。
思えば、お風呂から上がったひかるが夜空を見上げていたのは、単に天体観測をしていたわけではない。見つけようとしていたのだ。他の誰でもない、この宇宙の遥か彼方にいるララを。
ララのことを忘れていたわけではないし、ひかるにとってララがどれだけ特別な存在なのかということは分かっているつもりだった。
だが十二年間そばに居続けたことで、まどかはひかるとの可能性を期待するようになってしまっていた。叶うはずもない夢を見てしまっていた。不都合な真実から目を逸らすことが常態化してしまっていた。
まどかは図鑑を元の場所に戻して、改めてひかるのことを見る。短く切られた髪。直視するのが嫌で電気を消すと、部屋は光ひとつ見えない漆黒に包まれる。まどかは布団の中にひとり潜り込むと、枕に自分の顔を押し付けながら繰り返しつぶやいた。
ひかる、どこにも行かないで。
わたくしの元を、離れないで。
ララのところに、行かないで。
だがその祈りはすすり泣く声に遮られ、誰の耳にも届かない。
まどか自身の耳にすらも。
【2032年11月24日水曜日(残り3年と2か月と4日)】
「まどかさん、起きて。まどかさん」
瞬きを繰り返し焦点を合わせると、パジャマ姿のひかるが像を結ぶ。
その顔に浮かんでいるのはいつもの柔和な笑顔ではない。鬼のような厳しい形相だった。
「まどかさん、昨日の夜、寝てるわたしにキスしようとしてたよね」
「え……?」
「そういうの、困るよ」
刹那。全身が粟立ち、凍りつく。
「ぜんぶ見てたんだ、わたし。ショックで裏切られた気持ちでいっぱいだよ。わたしとララの関係を知ってるのに、まどかさんがそんなことをするなんて」
「ち、違うんです……! わたくしはひかるのことが好きで、それで……!」
「言い訳は聞きたくない。だからもう出ていって」
ベッドから引きずり落とされる。日々トレーニングを行っているひかるとまどかでは力比べではかなうはずもなく、抵抗するまどかをそのまま玄関まで押し出していく。
「まっ、待ってください! お願いです!」
懇願も虚しく、まどかは素足のまま外につまみ出されそうになる。玄関の狭いスペースで必死の抵抗をしていると、廊下の奥からララが歩いてきた。
「まどかはわたしたちの想いに唾を吐いたルン。見損なったルン」
どうしてララが。
まどかにはそう尋ねるだけの余裕も冷静な思考力も残されてはいない。
ララは軽蔑の眼差しをまどかに向ける。その目は泣き腫らしたかのように赤い。
「まどかのしたことは誰にも言わないルン。その代わりに、もう二度とわたしたちの前に現れないでほしいルン」
力が抜けた瞬間を、ひかるは見逃さなかった。その隙に外に押し出され、けたたましい音を立てながらドアが閉められる。
「さよなら、まどかさん」
鍵が閉められる音がして、まどかはその場に立ち尽くす。チャイムを鳴らしても、ドアを叩いても反応はない。まどかは泣き喚きながら謝った。涙が枯れても、声が出なくなっても、頭を下げて謝り続けた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめん……なさい……」
そして、まどかは目を覚ます。
全身からは気持ち悪い汗が噴き出ており、パジャマが肌に張り付くほどだった。
「あ、まどかさん、おはよー!」
ひかるはひょっこりと顔を出す。既にメイクを終えて着替えも済ませている。その表情にはついさっき見ていたような侮蔑の色は見えない。
まどかは滲み出くる涙をあくびで誤魔化した。
「すみません、寝坊してしまったようで……」
時刻は十時。こんな時間まで寝たのは久しぶりだったが、頭はもやがかかったように鈍く、体には依然として疲労が蓄積している。寝入ることができたのは朝になってからだったので、純粋な睡眠時間は三、四時間程度だったし、二日酔いも響いている。動くとズキンと頭に鈍痛が走った。
「朝ごはん食べる? おにぎりでもいい?」
「え、ええ……ありがとうございます」
不意にさっきまで見た悪夢を思い出しそうになって、それ以上の思考を止める。重い足取りで洗面所に向かい、ロボットのように起床後のルーティンをこなしていく。
リビングから歓声が聞こえたのは、まどかが歯磨きを終えたときのことだった。
「――ほんとですか!?」
ひかるが誰かと電話でもしているらしい。何を話しているのだろう。分からない。でもひかるが喜んでいるのならよかったと思う。どういう理由であれ、ひかるが幸せでいてくれれば、それでいい。
リビングに戻ると、ちょうどひかるは電話を終えたところだった。
「ま、まどかさん、あのね……、あのね……!」
ひかるはキラキラ光る目をまどかに向けるが、興奮しすぎて肝心の言葉がなかなか出ないようだ。どうしたのですか、と声をかけると、ひかるは笑顔を浮かべたまま、ボロボロと泣き始めた。
「わたし……試験に……、合格したって……!」
試験というのが宇宙飛行士候補者試験のことだと理解するのにはいくらかの時間が必要だった。適切な言葉を見つけるのにはさらにそれ以上の時間を要した。
長い沈黙の後で、まどかは絞り出すようにして言った。
「……よかったですね、ひかる。これでようやく、ララに会いに行けますね」
「会えるかな……? わたし、ララに、会えるのかな……?」
「大丈夫です。ひかるなら、会えますよ。……わたくしも、そのために、全力でサポートしますので」
ひかるは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらうなずくと、声を上げてまどかの胸に飛び込んできた。
「まどかさん……ありがとう……」
自分よりも背丈が高く、ジムで鍛えているはずのひかるの体。それがこのときばかりはひどく小さく華奢に感じられる。無意識のうちに背中に回そうとしていた腕を、まどかはすっと下ろした。その代わりにひかるの体を優しく離すと、顔に微笑を張り付けて言った。
「ほら、ひかる。せっかくのメイクが崩れてしまっていますよ?」
「……う、直してくる」
パタパタと足音を立てながらひかるは洗面所の方に向かう。
ひかるがいなくなると、まどかはその部屋にひとりきりになった。
テーブルの上にはひかるの握ってくれたおにぎりが用意されている。ララの好きだった地球食だ。躊躇ったあと口に運んでみたが、すぐさま胃が拒絶の意を示した。まどかは口を押さえながらトイレに走った。
手を離した瞬間、ツンとした酸っぱい液体が逆流する。大粒の涙がぼたぼたとこぼれて便器の中に落ちていく様を、まどかは嗚咽を殺しながら見つめていた。
☆
宇宙飛行士候補者に選ばれたひかるは、間もなくNASAで宇宙飛行士としての基礎訓練を行うために自宅のマンションを退去し、アメリカへと旅立った。そして二年間に及ぶ基礎訓練が終わり、晴れて宇宙飛行士として認定された後は、宇宙科学事業団(NASRA)の職員住宅に引っ越した。
ひかるのいなくなったマンションで、まどかはその後も独り暮らしを続けている。
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