金色の昼下がり

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映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』考察 搾取される弱者の“強さ”と“希望”

 口コミのあまりの良さに惹かれ、これまで漫画もアニメ一切見たことのなかったゲゲゲの映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を観てきました。結論から言いますと魅力的な凸凹男バディ&ホラーミステリーの素晴らしい映画でした。ゲゲゲ何も知らない民でもめちゃくちゃ面白かったのでゲゲゲ知らない民でまだの人もぜひ見てくださいとしか言いようがありません。

 本記事はネタバレありで感想や考察を書いているので未鑑賞の方はご注意下さい。

水木と鬼太郎の父の凸凹バディ

 水木はサラリーマンという一般的な人間である一方、鬼太郎の父(かつての目玉おやじ)は幽霊族の末裔です。そしてこの映画はその二人、すなわち「人と人ならざる者」のバディが物語を進行させていくわけですが、その凸凹具合がまず最高でした。

 

 水木は先の戦争で玉砕を命じられながらも生き残った元兵士で、戦争による深いトラウマを抱えており、沙代から積極的なアプローチを受けても「自分は何も感じない」と鬼太郎の父にこぼしていました。水木は戦争により人間性を失った人間と言えます。

 

 一方、鬼太郎の父は幽霊族の末裔(人あらざる者)としてかつては人間を憎んでいた過去があるものの、妻に出会ったことで人間を愛するようになったという背景を持っています。禁忌の島で死にそうになった水木を助けた際には、「なぜ助けた?」と問われ、「憐れだったから」と答えていました。鬼太郎の父は妻と出会ったことで人間的なものを得た非人間、時には感情を爆発させる非常に人間臭い妖怪、それが鬼太郎の父です。

 

 つまりこの物語は「人間性を失った人間」と「人間性を得た妖怪」のバディものであり、そんな水木が鬼太郎の父と出会うことで人間性を取り戻していく物語でなわけですが、それが見る者の心をぎゅっと鷲掴みにしてきます。

 

 …いや、厳密にいうと水木は「人間を諦めかけていた人間」だったとも言えます。

 確かに序盤の頃の水木は自身の出世のためなら何でもやると言い、鬼太郎の父を騙したり(村に来た目的を話せば牢から出すという嘘)もしてましたし、沙代からのアプローチに対して本気で向き合うことなく自らの出世のために彼女を利用していました。でも鬼太郎の父が最初に時麿殺しの容疑者として疑われて殺されかけたときには明らかに村で浮いてしまう(出世から遠ざかる可能性もあった)ことを無視してそれを止めましたし、鬼太郎の父が物語中盤で捕らえられて村人にボコボコにされるシーンでは「お前らみたいな弱者は存在価値なんてないんだから我々のような強者の養分になれるだけでも光栄に思えバーカ(意訳)」とせせら笑う乙米に、かつて戦場で部下たちに玉砕命令を出しながらも自分だけは助かろうとしていた上官を思い出し、「(自分が)情けねえ」とつぶやいていました。人間であることを諦めかけていた彼の心には、いつだって人間であろうとする諦めきれない心が残っていました。

 

 弱者でありつづけることは強者に虐げられその養分になるということであり、だからこそ何をしてでも出世して強者になろうとしていた水木。そんな彼に、クライマックスでは時貞(2.0)が「お前もこっち側(強者)に来い」と誘います。

 もしかしたら、と私はこんな妄想をしてしまいます。鬼太郎の父と出会っていなかった水木であればその提案を飲んでいたのかもしれない、と。

 でも水木はもう人間を失った人間でもなければ人間を完全に諦めた人間でもありません。鬼太郎の父と出会った彼は確かに変わったのです。だからこそ、時貞(2.0)の提案を一蹴し「あんたつまんねぇなあ!」と斧を振り下ろすシーンは心を振るわせざるを得ませんでした。

 

弱者が搾取されつづけるこんな世界は

 物語のラスボスは巨大な狂骨であり、放置するとこの世界は狂骨に飲み込まれてしまう、と鬼太郎の父が語っていました。だからこそそれを防ぐため鬼太郎の父は自らがその依り代となることを選択するわけですが、そのとき水木は「お前が犠牲になる必要ないだろ!放っておけよ!こんな世界どうだっていいだろ!(意訳)」と叫びます。その台詞を聞いたとき、私はこう思いました。

 

 いやホントそうだよ。そのとおりだよ。

 

 だってこの世界、最悪じゃないですか。

 戦後責任を取るわけでもなく物資を売りさばき富を得た軍の上官。幽霊族を虐殺し何の罪もない村の外の人間を拉致してはその血を啜り肥えてきた龍賀一族。一方で、お国のためにと大層な大義名分を掲げながら玉砕を命じられ何の意味もなく命を散らした末端の兵士。時貞に体を奪われ殺された時弥と、祖父から性的虐待を受けて育ち時麿からも襲われた沙代。実の母はそれを知っておきながら止めようともしてくれませんでした。時弥はただ東京タワーを見るのが夢だったのに。沙代は銀座のパーラーに行くのが夢だったのに。そんな些細な夢すら叶えられません。なぜなら彼らは弱者だからです。

 いつだって強者から搾取されるばかりで、弱者は養分になるだけの世界。

 思えば『ゲゲゲの謎』では強者から搾取される弱者という構図がいたるところに散りばめられていました。それは前述した内容だけではありません。

 たとえば主人公である水木が勤めているのは民間の商業血液銀行です。現代では「献血」が主流(というより売血は違法)ですが、当時は売血が認められており、定職につけないような人々から民間の商業血液銀行が血を買い取る、ということが広く行われていました。(※1)

 クライマックスでその姿を見せる血桜は弱者からの搾取によって花を咲かせるという、この物語のテーマをこれでもかというくらい如実に示すモチーフでした。

 

 では、この世界の醜悪さにほとほと愛想を尽かしていた水木が物語の最後に何を選んだのか…という話は後述したいと思います。

 

※1 参考文献:

血液事業の歴史|大阪府赤十字血液センター|日本赤十字社

 

狂骨は狂骨を生み、怨念は怨念を生む

 作中において「狂骨は狂骨を生む」との説明がされていましたが、その狂骨は怨念によって生まれるものです。

 さて、祖父に虐げられ親族にも虐げられていた沙代は、その怨念により強力な狂骨を生み出し自らを虐げてきた一族を殺していくわけですが、ふと考えてみると龍賀の一族において虐げられていた人物は何も沙代と時弥だけではありません。

 たとえば時麿。彼は女性との交際を禁じられ、祖父の命令でなんだかよく分からない修行をずっとさせられていました。あのまま沙代に殺されなかったとしても儀式により時貞に体を乗っ取られていたのではないかとも思います。彼の人生はいったいなんだったのでしょう。

 たとえば乙米。龍賀の一族が近親相姦によって子を生すのであれば、彼女もまた時貞から性的虐待を受けていたと類推せざるを得ません。

 たとえば丙江。若い頃に駆け落ちして村を出たのはこんな村は嫌だと心底思ったからに違いありません。しかし彼女は“連れ戻され”ました。そこで何があったのか、常に酒を飲み、自堕落な姿を見せていた彼女を見ていれば…そして哭倉村の醜悪さを目の当たりにしたのであれば、想像するのは容易いはずです。

 たとえば時弥の父母である長田夫婦は夫婦と言いながらほぼ会話のシーンがなく、長田幻治は乙米を庇おうとしたり乙米と絡むシーンばかりが映されていました。乙米と幻治が互いに思い合う関係だったとするならば、それを引き裂いたのは村の因習もしくは時貞の意思によるものなのでしょう。

 

 もうお分かりのとおり、弱者を虐げ搾取していた彼らは、過去に強者から搾取されていた経験を持っていることが想像されます。そして強者から搾取されつづけた彼らが選んだのは、弱者からの脱却、すなわち強者になることへの渇望であり、弱者を虐げ搾取する側になるということでした。

 

 強者になることへの渇望。

 それは主人公、水木もまた同様でした。

 戦争で弱者として理不尽な目に遭った彼は、強者になることを願います。哭倉村にやってきた行動原理は、強者になることへの「渇望」のみでした。いえ、あるいは自分を搾取してきた強者に対する「怨念」、と言い換えることもできるかもしれません。

 

 しかし作中でも示されていたように、怨念が生むのは新たな怨念であり狂骨だけです。圧倒的な強者(時貞)に搾取されつづけた乙米たちは今度はその子どもである沙代たちを搾取するようになり、沙代は狂骨を生み出し一族に復讐を果たしました。ですがその結果、沙代も殺され、その短い人生を終えることになります。そして哭倉村に残った怨霊たちは、現代に至るまで他者に危害を加えつづけるのです。

 

 彼らはみな、心の中でこう叫んでいたのではないでしょうか。

 こんな世界どうなったっていいだろ、と。

 ゲゲ郎を失いたくなかった水木が叫んだように。

 

怨念の連鎖を止めた“二人”

 しかしその怨念の連鎖ともいえる負のスパイラルを止めた者がいます。

 それが鬼太郎の父です。彼は自らを依り代とすることで最大級の狂骨を消滅させました。鬼太郎の父がそうしたのは妻からの影響を受けて抱くようになった人間への“愛”であり水木への“愛”によるものです。あるいはそれは“希望”と言い換えることもできるかもしれません。私には、どれだけ虐げられ搾取されても決して他者を虐げ搾取する「強者」の側に回らず、「弱者」でありつづけることを辞めなかった鬼太郎の父のその意思こそが本当の「強さ」に思えてなりません。

 

 そして忘れてはならないのは怨念の連鎖を止めたもうひとりの存在です。

 東京タワーを見る夢すらも理不尽に奪われた彼は、哭倉村で怨霊となっていたことが物語のラストで明かされます。彼は哭倉村に残っていた最後の怨霊で、鬼太郎と出会い、紗代の霊に迎えられながら消滅するわけですが、ここで注目したいのは時弥が“自ら成仏した”という点です。他の怨霊のように鬼太郎に退治されるわけではなく、怨念の連鎖を断ち切り自らの意思によって成仏した彼もまた、本当の「強さ」を持っていたのではないかと私は思うのです。

 

墓から生まれた鬼太郎を抱きしめる水木が示したのは

 人間を諦め強者になることを渇望していた水木が変わるきっかけを与えてくれたのは人あらざる存在、鬼太郎の父でした。しかし物語のラストで水木は鬼太郎の父のことを忘れてしまっていました。鬼太郎の父との思い出を忘れてしまった水木は、また以前のような人間を諦め強者になることを渇望していた頃の水木に戻ってしまったのでしょうか? そこまでいかなくとも、強者が支配し弱者を搾取しつづけるこの世界をもうどうでもいいと諦めてしまったのでしょうか?

 

 いえ、そうではないはずです。

 私がそう確信するのは、墓から生まれてきた鬼太郎を自らの手で殺そうとして、でも、そうせず、抱きしめたあのシーンを見たからに他なりません。弱者として虐げられ搾取されてきた水木は、物語の最後に、圧倒的な弱者でありながらも未来への希望の象徴である赤子を、愛おしく抱きしめたのですから。

 

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