スタプリ映画(秋)、そのあまりの素晴らしさに見終えた後は茫然自失というような状態でした。ただ、前評判では「泣ける」「切ない」という噂を聞いていたので、ああ、私もボロボロ泣いてしまうのかな…と身構えていたのですが、正直なことを言いますと、初回で観たとき、私は涙を流すことはありませんでした。ただ、それは感動しなかったからというわけではなく、呆気に取られていたためです。ポカンと口を開けたまま、しばらくのあいだは何かを考えることすらできませんでした。
今、私が観たのは、いったい何だったのだろう。
映画館を出た後も、その日はただただ茫然とし続けていました。その後、自分が観たものは何だったのかを確かめるために、私は再び映画館に足を運びました。そして私は、溢れ出る涙でぼろ雑巾のようになりながら、ようやく察することができました。
ああ、これは、「歌」なのだ。
子どもたちに捧げられた、「祝歌」なのだ、と。
(以下、本編のネタバレを含みます)
※本文中の引用はできる限り正確なものを書こうと試みていますが、いかんせん巻き戻しのきかない映画館ですので、うろ覚えなものが多々あります。読む際には、「だいたいそういう感じの台詞だった」というふうに捉えていただけると幸いです。
- 冒頭の「魅せ方」がすごい
- 子どものひかる/大人のララ…と見せかけて
- ララとユーマが分かり合う時
- 「根源的な悪」ではない、「等身大の悪」
- ララもまた「自分本位な想い」を抱いていた
- 星奈ひかるの特異性
- 二度目の正直:ララの「想い」が届くとき
- ひかるとララが変身した理由
- ユーマの夢はララ達の夢
- 「ユーマ」とは何者なのか?
- 終わりに:世界には「悪意」が溢れているけれど…
あなたは、世界が美しいと言えますか?
冒頭の「魅せ方」がすごい
冒頭。
オルゴールの音楽を背景にしながら、超新星爆発の様子が映し出されます。超新星爆発とはいわば「星の死」です。BGMの静かな音楽は、まるで死にゆく星への弔いのようです。
さっきのは何だったんだろう。鑑賞者に疑問を抱かせる「静」のシーンが続いたかと思うと、そこからは一気に場面が転換し、テンジョウさん率いるノットレイダーたちとの戦いの場面に移ります。大盛り上がりで流れるOP曲と、宇宙空間でぬるぬる動く激しい戦闘描写、そしてカットインによる各キャラクターの紹介、スタプリのことをよく知る人はもちろん、毎週スタプリを観ているわけではないような親御さんにも、世界観や設定が簡単に分かるような作りになっています。
そしてシャイニートゥインクルペン(必殺技)を使い、テンジョウさんたちを撃退し…と、最初から「これでもか」というくらいに盛り上がり要素を詰め込むことによって、「静」から「動」への大きなギャップを生み出し、鑑賞者の心を否応なしに熱くさせてきます。
しかも、ここまで、開始後(超新星爆発のシーンから)わずか3分程度です。たったこれだけの時間で、「意味深な伏線」「世界観の説明」「鑑賞者を引きつける盛り上がり」を見せる構成力と描写力はもうただただ感嘆のひとことです。
子どものひかる/大人のララ…と見せかけて
ユーマとのファーストコンタクトのシーンでは、ひかるさんとララがそれぞれまったく逆の反応をしてしていました。
- ひかる→ユーマに対する好奇心
- ララ→ユーマに対する警戒心
序盤においては、ひかるさんは「子ども」として、ララは「大人」としての役割を与えられているとも言えます。
ただ、ひかるさんについては、TVシリーズでも一貫して描かれていた彼女の持ち味である「想像力」が遺憾なく発揮されています。猫に食べられそうになったユーマが威嚇していたときも、ひかるさんはこう言いながら歩み寄ります。
ひかる「怖がってるだけだよ」
自分のことを「想像してくれた」と感じたユーマは、ひかるさんにすっかり懐きます。そして、ひかるさんの「ここに行きたい」という希望をすべて叶えてくれるわけですが、なぜユーマがそんなことをしたかというと、ひかるさんに「喜んで欲しかった」からでしょう。実際、沖縄に連れて行ってもらえたひかるさんは大はしゃぎです。
ただ、この時点ではユーマはララのことをまだ信頼していません。ララがミラクルライトを振って、「ここに行きたい」と願っても、ユーマはそれを叶えてくれません。ユーマとララは、まだ分かり合えていないのです。
さて、ユーマのワープで海の中に引きずり込まれた際には、ララがユーマに「溺れたらどうするルン!」と怒ります。しかしここで、大人としての役割を与えられていたララの立場が揺らぎます。ユーマがララに暴力を振るおうとした際、咄嗟にひかるさんが「駄目だよ!」と止めに入るのです。
この一連のシーンで、ララはやや感情的にユーマに当たっていましたが、一方、ひかるさんの行動は紛れもなく「大人」のそれでした。序盤で見せていた、「大人のララ」「子どものひかる」という立場が、くるっと入れ替わっているのです。こうして、相反する二つの性質をそれぞれ与えることによって、「羽衣ララ」と「星奈ひかる」というキャラクターに「奥行」が生まれています。TVシリーズでも同様のストーリーがありましたが、まさにひかるさんとララ(ひかララ)のエッセンスが詰まった展開だと言えます。
ララとユーマが分かり合う時
ララはユーマのことを怒っていましたが、それはユーマのことが心配だったからです。ただ、ララ自身もそのことには気付いていませんでした。ララが気付いたのは、次の場面です(※1)
ララ「異星人は地球人にバレたら駄目ルン! 怖い人につれて行かれたらどうするルン! これがもし、もし…!」
もし、ユーマが怖い人につれて行かれたら。
ララの想像力がそこに辿り着いたとき、ようやくララは自分がユーマのことを心配していることに気付くのです。そして、それはユーマにとっても同様です。ユーマもまた、ララの言葉が、自分を否定するものではなく、自分を想ってのものなのだと悟ります。
このあと二人は分かり合うわけですが、その証として描かれていた「触角と耳のタッチ」は、異星人ならではの演出で最高でした。
※1 二人が分かり合うときには一面の花畑が広がっています。このオレンジ色の花は、沖縄の伝統的な農産物、クワンソウ(和名:アキノワスレグサ)です。
「根源的な悪」ではない、「等身大の悪」
本作では明確な敵役として登場するのは次の2グループです。
- ノットレイダー
- 宇宙ハンター
テンジョウさん率いるノットレイダーたちは序盤にてその役目を終えるため、メインの敵は宇宙ハンターたちなのですが、この宇宙ハンターたちの描かれ方がとても面白かったです。
アニメに登場するキャラクターには、物語上、何らかの「役割」が与えられます。では宇宙ハンターたちに与えられた役割は何かと言うと、「強大な悪」の象徴…と言いたいところですが、それは少し、言いすぎかもしれません。
というのも、宇宙ハンターの目的は、「この世界を絶望で満たしてやろう」といった「根源的な悪」に基づくものでもなければ、「世界を私の考える理想的なものに作りかえてやろう」といった「歪んだ正義」に基づくものでもなく、ただただ「金儲けがしたい」という、人間の「自分本位な欲望」に基づくものだからです。
宇宙ハンターたちには、歴代のプリキュアのボスが描いていたような「邪悪」もなければ、「理念」も「思想」もありません。ただ、「自らの小規模な欲を満たす」ために他者のことを考えずに動くだけの、「等身大の悪党」なのです。
では、なぜ、本作では「根源的な悪」や「歪んだ正義」に基づいた敵ではなく、こうした「等身大の悪」が悪役として登場したのでしょうか?
私の考える理由は次の2点です。
- 強大なボスを倒すことによるカタルシスは不要だったため
- 世界には「等身大の悪意」が溢れていることを示すため
1つ目。
エンタメの映画には、たいていの場合、「もっともカタルシスを感じる場面」というものが設定されています。本作の場合、もっともカタルシスを感じる場面は、ラストのプリキュアたちの「想い」がユーマに届いていく一連の歌とダンスのシーンです。よって、強大なボスを用意する必要はそこまでありません。むしろ、あまりに強大なボスを用意してしまうと、カタルシスを感じるポイントが「ボスを倒すこと」に移ってしまい、肝心の歌とダンスのシーンが映えなくなってしまう危険もあるかもしれません。
2つ目。
この世界には、様々な「想い」が 溢れています。「美しい想い」≒「善意」もあれば、「歪んだ想い」≒「悪意」もあります。バーンの「想い」がユーマに影響を及ぼしたとき、ユーマの世界は「悪意」という名の絵の具によって黒く塗り潰されました。しかも、同様の「悪意」を持っているのはバーンだけではありません。ユーマの存在を嗅ぎつけ、宇宙からは大量のハンターたちが押し寄せてきます。その誰もが、「自分本位の欲望」を抱きながら。
大量の「悪意」にさらされたユーマは、自分自身をドス黒く染め上げていきます。ユーマは、ひかるさんやララ、そして私たち鑑賞者に問いかけるのです。「この世界は、本当に美しいの?」と。「世界には、こんなにもたくさんの悪意で溢れているのに?」
ララもまた「自分本位な想い」を抱いていた
本作が上手いのは、バーンたちを「悪党」として描きながらも、彼らのロジックに一定の「説得力」を持たせている点です。
アン「あなたたち、その子がどれだけ貴重な存在かわかってるの?」
宇宙ハンターたち「もちろん分かっている」「宇宙一貴重なお宝、スタードロップ」「オークションにかければお金持ち」
バーン「守ろうが奪おうが、そいつにとっちゃ大して変わらねえ。全部おれたち人がやることだ。だったら、好きにさせてもらう」
宇宙警察がユーマを守ろうとしているのは、ユーマが「貴重」な存在であり、保護しなければ危険な星になる可能性があるからです。言葉を変えれば、「人間にとってユーマが貴重」であり、「自分達が危険な目に遭う可能性がある」からこそ、ユーマを保護しようとしているわけで、これはバーンの指摘する通り「人の都合」でしかありません。
また、それはユニたちにとっても同様です。
ララが「ユーマと離れたくない」と言ったとき、ユニたちはこう言います。
ユニ「ララ、あの子の未来を考えたら、離れるのがいちばんよ」
(おそらくアン)「星は宇宙にいるのが自然です」
ユニやアンたちも、一見、ユーマのことを考えているように見えますが、「ユーマ自身がどのように考えているのか」という視点が抜けています。確かに星は宇宙にいるのが自然かもしれませんが、だからといって、ユーマの気持ちを聞く前に、「ユーマは宇宙にいるべきだ」と決めることも、ユーマの意思を尊重しているとは言い難いでしょう。「動物は野生で生きるのが自然です」と言って、ペットの首輪を外すのが正しいかというと、必ずしもそうではないのと同じように。
さて、本作の主人公とも言うべきララは、「ユーマと離れ離れになりたくない!」と言って、宇宙警察に身柄を引き渡すことに反対します。バーンがユーマと連れ去ろうとした際には、このような発言をしています。
ララ「嫌ルン! ユーマを連れていかないで!」
そう、ララはここで、「ユーマを連れていかれること」に対して拒絶の意を示しており、「ユーマを危険な目に遭わせないで」と言っているわけではありません。ララのこの気持ちは、「自分本位な想い」という意味において、バーンたち宇宙ハンターと本質的に同様なのです。そのことは、ララ自身も後に気付いています。
ララ「わたしのせいルン。わたしが、ユーマと離れるのが嫌だって。そのわがままがユーマを…」
ララとバーン、宇宙警察と宇宙ハンター。
「自分本位な想い」に基づいてユーマに干渉しようとしているという点では、みんな同じなのです。
星奈ひかるの特異性
ただし、本作で、一人だけ明確な態度でユーマの気持ちを尊重し続けていた人物がいます。
それが、星奈ひかるさんです。
ひかる「好きだったらユーマのこと、わたしまちだけで決めていいのかなって。わたしだってユーマと別れるのは嫌だよ」
(ひかるかララ)「いちばん大切なのは、ユーマの気持ち」
ひかるさんは持ち前の「想像力」で、ユーマの心に想いを寄せているのです。
二度目の正直:ララの「想い」が届くとき
クライマックスに至る直前、ララはユーマの雷に撃たれます。そして、ララは海の底に沈みながらこう自問します。
「もう駄目ルン? (自分の想いはユーマに)届かないルン?」
そのとき、海中にはミラクルライトが沈んできます。ララはそれを手に取り、想いを込めて光らせるのですが、ここで一度、あの沖縄での場面を振り返ってみていただきたいのです。ユーマのワープで好きなところに行けると知ったララが、今度は自分もやりたいと言って、ライトを光らせたときのことです。あのとき、ユーマとララは分かり合えていなかったために、ララの「想い」は届かず、好きなところに行くことはできませんでした。
しかし、どうでしょう。
このとき、ユーマの声が聞こえます。
ララの「想い」は、ユーマに届いたのです。
以前は届かなかった「想い」が、今度こそ、届いたのです。
ここからはもう、圧巻のクライマックスです。
ひかるさんとララがプリキュアに変身し、漆黒の世界には目が眩むばかりの光が満ちていきます。
ひかるとララが変身した理由
と、ここでスタプリ17話の台詞を引用してみます。
(皆を追いかけてくる「ドラゴン兵団」には勝てないという話の中で)
ユニ「でも、プリキュアに変身すれば勝てるかも」
まどか「それは駄目です 悪者でもない方々を やっつけるわけにはいきません」
ユニ「あっそう」
スタプリでは、プリキュアに変身するのは「悪」と対峙したとき、「大切なもの」を守りたいときに限定されていました。17話では、ドラゴン兵団は「怪盗ゲーム」のプレイヤーとして出てきたキャラクターであり、いわゆる「悪者」でもなければ、プリキュアたちの大切なものを奪おうとしている人物でもありませんでした。
では、本作ひかるさんとララが変身をしたとき、目の前には「悪」がいたかというと、そういうわけではありません。そこにいたのはユーマだけです。確かにユーマは「危険な星」になりそうになっていましたが、ユーマは明らかに悪としては描かれていません。
では、二人が「大切なものを守りたい」という想いで変身したのかというと、そうとも言いにくいです。二人とも、「暴走するユーマを止めないと」「地球が飲み込まれるのを回避しないと」「ユーマを元に戻さないと」という想いがまったくなかったわけではないでしょうが、それらは結局のところ「自分本位の想い」に基づくものです。このときの二人が心に抱いていた「想い」の本質は、それではありません。
では、何を「想っていた」のかというと、それは次の2つです。
- ユーマの「想い」を聞きたい
- 自分達のユーマに対する「想い」を伝えたい
その根拠は、次の劇中の台詞です。
ララ「聞かせて。ユーマの想い」
プルンス「これはどういうことでプルンス?」
フワ「二人の想いがあふれてるんだフワ!」
ララたちは、「ユーマはどう想っているの?」と聞きながら、自分達の大切な「想い」を歌とダンスに込めてユーマに届けようとします。それがあの美しいクライマックスのシーンであり、そして、それこそが二人が変身した理由です。二人はユーマというかげがえのない存在に出逢えた奇跡に、「宇宙いっぱいのありがとう」を伝えたくて、変身したのです。
きみの煌めきと出逢えた奇跡に 宇宙いっぱいありがとう
出典:Twinkle Stars(『星のうたに想いをこめて』挿入歌)
それはまさに、ユーマに捧げられた「祝歌」でした。
※スタプリ17話の詳しい考察はこちらから。
ユーマの夢はララ達の夢
二人の想いがユーマに届いたとき、星は美しい姿へと生まれ変わっていきます。
最後の場面で咲き誇る花々は、あの日、沖縄で見たクワンソウです。それは初めてユーマとララが分かり合えたときの場所であり、ユーマにとってそのときのことが、どれだけ大切なものになっているのかが伝わります。
すべてが終わったひかるさんとララのもとに来たのは、成長した姿のユーマです。このときのユーマの髪型(?)はまるでひかるさんとララの髪型を混ぜ合わせたような形状で、もうそれだけで私の胸の中は大変なことになるわけですが、それはさておき、この目の前に拡がる美しい世界は、「ユーマがいつかなりたいと想っている星のイメージ」であることが明かされます。
ここで、ユーマの持っている能力を今一度、思い出していただきたいのです。
ユーマは、その人の想いに反応し、その人が行きたいと願った場所に連れていく力を持っています。それは、ひかるさんたちを「沖縄」や「世界中の絶景」に連れて行っていたことからも分かります。
今回、ユーマはララたちを「自らの夢」である世界に連れてきました。ユーマはララの願い--「あなたの夢を教えて」という想いに呼応して、ララたちをここに連れてきたのです。
ユーマの夢は、ララたちの夢でもあるのです。
どんな願いもまっすぐ“本当”を聞かせてよ
だってきみの夢は わたしたちの夢出典:Twinkle Stars(『星のうたに想いをこめて』挿入歌)
別れ際、ララとユーマは触角と耳(?)をタッチさせます。
あのとき、沖縄のクワンソウの咲く花畑でやったときと、同じように。
そうしてララたちはユーマと「さよなら」をするわけですが、それはきっと、永遠の別れを惜しむ「さよなら」ではありません。なぜなら、ララたちも歌としてそのことは伝えていますし、何より別れ際のユーマは、私の聞き間違えでなければ確かにこう言っていたからです。
またね、と。
心ならひとつ さよならはさよならじゃない
出典:Twinkle Stars(『星のうたに想いをこめて』挿入歌)
宇宙に帰っていくユーマを見届けたひかるさんは、ポツリと言います。いつもなら元気いっぱいに好奇心に胸を膨らませて、半ば叫ぶように言うはずの口癖を、何とも切なく、そして慈愛に満ちた口調でつぶやくのです。
ひかる「キラやば…」
この「キラやば 」に、心を持っていかれた方は少なくないはずです。
「ユーマ」とは何者なのか?
ユーマはスタードロップ、すなわち「星の子」として紹介されていますが、では『星のうたに想いをこめて』という作品におけるユーマは、いったい何の象徴として描かれていたと考えられるでしょうか?
私が考えたのは、次の2つです。
- 子どもたちの象徴
- 子どもたちがこれから出会うかもしれない大切な人の象徴
1つ目。
ユーマはまだ生まれたての「星の子」であり、それはプリキュアのメインターゲットである3~6歳の子どもたちと同様の存在です。ユーマが子どもたちの象徴であるなら、プリキュアたちがユーマに向けて届けようとした「想い」とは、一緒に劇場に足を運んでいた「親」から「子」への「ありがとう」という想いにも重なりますし、「親」に限定せずとも、「大人」たちから「子どもたち」への想いであるとも言えるかもしれません。
2つ目。
劇場では子どもたちにミラクルライトがプレゼントされます。クライマックスのシーンでは、子どもたちは歌とダンスに合わせてライトを輝かせます。では、子どもたちは誰に向かってミラクルライトを振るのでしょう?
もちろんそれは一義的にはユーマですが、ユーマのことを「UMA」、すなわち「未確認動物(Unidentified Mysterious Animal )」と捉えると、子どもたちは「まだ出会っていない(未確認な)大切な存在」「これから出会うかもしれない大切な存在」にライトを振っているとも考えられます。
この先、子どもたちは成長していく過程で、「大切な存在」と出会うことでしょう。それが友達なのか、恋人なのか、家族なのか、子どもなのか…それはわかりません。しかし、そのときに、もし、子どもたちがこの映画を思い出すことがあったなら。成長した子どもたちが、心のミラクルライトを振って、大切な人に自分の想いを届けようとする…そんな未来が、もしかしたら、あるかもしれません。もしこの映画が子どもたちの心のどこかに残り続け、いつの日にかキラキラと輝くことがあれば、きっと、それ以上に「キラやば」なことはないと、私は思うのです。
この映画は、子どもたちに捧げられた「祝歌」なのです。
終わりに:世界には「悪意」が溢れているけれど…
スタプリのTVシリーズを毎週観ている方は、スタプリが「単純な勧善懲悪の物語を描いていない」ということはすでに周知の事実かと思います。敵サイドには敵サイドの事情がありますし、時にはプリキュアサイドが「悪」だと断罪されることすらもある、そんなシビアな展開を見せているのがTVシリーズです。
ただ、本作における宇宙ハンターたちは、やむを得ない事情を抱えている明確な描写はまったくなく、プリキュアに倒された直後も会心するような素振りは見せていませんでした。前述したとおり、宇宙ハンターは徹頭徹尾、「自分本位の想い」に基づいて行動する「等身大の悪党」として描かれています。
多様性を描き、勧善懲悪を描いていないはずのスタプリの映画に、なぜ宇宙ハンターたちがこのような扱いで登場したのかというと、それは前述したとおり、「世界には悪意が溢れている」ということを描写しなければならない必然性があったからだと考えます。もし宇宙ハンターにやむにやまれぬ事情(ベタなところで言えばお金がなくて親の治療費が払えないなど)があれば、勧善懲悪にはならないかもしれません。しかし、そうしてしまうと、「世界には悪意が溢れている」という事実の描写が弱まってしまいます。
ユーマは、ララたちの想いを通して、「世界の美しさ」を認めたわけですが、決して「世界は汚くない」と妄信しているわけではありません。ユーマは大量に押し寄せる宇宙ハンターの「悪意」を受けながらも、それでもなお「世界の美しさ」を力強く信じたのです。あの美しい世界は、「悪意」を乗り越えた先にあるものであり、「悪意」を忘却した結果としてあるものではないのです。
あなたは、世界が美しいと言えますか?
映画を観終えた私は、この想いをどうやって子どもに伝えようか、とミラクルライトを片手に考えています。
※普段はこんな考察をしています。
アイワーンちゃんがユニに騙されたのは自業自得なのか?という考察です。
惑星サマーンはディストピアなのか?という考察です。
プリキュアドリームステージにまだ行ってない方は行くことを強くオススメします。童心に返りすぎて胎児になった話。