ヒープリ2話、めっちゃよかったですね。
2話の時点で主人公・のどかさんの行動原理が丁寧かつ劇的に描かれていて、これから1年間、彼女のことを応援したい気持ちでいっぱいになりました。
この記事はヒーリングっど♥プリキュア2話の感想考察です。ネタバレを含みますので未視聴の方はご注意ください。
- ラテは「飼う」わけではない
- ヒープリは「死」を直視する
- 「のどか」と「ちゆ」は同じカメラに入らない
- 好きだからこそ、危ない目には遭わせたくない。
- それでも、花寺のどかは「手を伸ばす」
- ラビリンが「お医者さん失格」だった理由
- 終わりに:なぜ2話で新プリキュアが登場しなかったのか?
- 雑談
ラテは「飼う」わけではない
父・たけし「犬も飼えるとは言ったけど、」
母・やすこ「いきなり拾ってきちゃうとは」のどか「この子、迷子みたいで、ほっとけなくて。わたし、この子を助けたいの!」
たけし「分かったよ」
やすこ「ただし、ちゃんと飼い主も探すこと」
のどか「うん! ありがとう! お父さん、お母さん!」
アバン(冒頭)。
犬も飼えるとは言ったけど、というお父さんの台詞はその通りです。1話のアバンのときに、お父さんはこう言っていました。
のどか「お庭もひろーい!」
父・たけし「ここなら、犬でも猫でも飼えちゃうぞ」
1話でこの台詞を用意しておくことで、2話でラテを拾ってきたのどかさんにOKを出す展開が、より自然なものになっています。
ところで、一連の会話をよく見ていただきたいのですが、のどかさんは「ラテを飼いたい」とは言っていません。では何と言っているかというと、「ラテを助けたい」と言っているだけです。たけしさんとやすこさんが「拾う」「飼う」という言葉を使っているのとは対照的です。
なぜのどかさんがこのような言葉回しをしているのかというと、おそらく、のどかさんにとってラテたちヒーリングアニマルは、「飼う」「育てる」「ペット」という上下のある関係ではなく、「友達」「ともに助け合う」「パートナー」という対等な意識があるからだと考えます。
ヒープリは「死」を直視する
ラビリン「ビョーゲンキングダム」
ペギタン「そこには地球を、まるごと病気にしようとしているビョーゲンズっていう種族がいて、そいつらがメガビョーゲンを作っているペエ」
のどか「まるごと病気? なんでそんなこと!」
ニャトラン「自分達にとって住み心地の良い世界に変えようとしてんだよ」
ペギタン「でもそれは、ビョーゲンズ以外の命はどんどん弱って、死んじゃう世界ペエ」
のどか「ラビリン、わたしがんばる! ぜったいぜったい、ビョーゲンズには負けない! これからいっしょに、地球を守っていこうね!」
ラビリン「ラビリン、のどかと出会えてよかったラビ!」
本作の敵・ビョーゲンズたちの目的が明かされました。
彼らの目的は、この地球を「自分達にとって住み心地の良い世界」に変えることです。しかし、ビョーゲンズたちにとって住み心地の良い世界は、他の生物にとっては「命がどんどん弱り死んでしまう」世界です。そのため、ビョーゲンズの侵略から地球や他の生命を守ることが、本作におけるプリキュアの「使命」となっています。
さて、ラビリンたちの説明を聞いたとき、私の胸には次の2つのことが抜けない棘となって突き刺さりました。
- 強調される「死」
- 自分達にとって「住み心地の良い世界」とは?
1つ目。
このシーンではペギタンがはっきりと「死」という言葉を発しており、ビョーゲンズたちの戦いに敗れたとき、他の生命は「死ぬ」ということが明確に示されています。
今回の敵との戦いは、負けたら「悲しむ」「絶望する」「侵略される」「支配される」にとどまるだけではなく、「死ぬ」のです。のどかさんやヒーリングアニマルたちにとって、この戦いは文字通り「命がけ」なのです。
ヒープリでは、のどかさんの病気を筆頭に、「死」を連想させる描写が既に繰り返し描かれています。「命」にフォーカスを当てたとき、必然的に浮かび上がってくるのが「死」というテーマです。生と死は切っても切り離せない関係にあります。おそらく、ヒープリはこれから「生」についてだけではなく、「死」についても深いところまで描いていくつもりなのでしょう。(※1)
※1 直接的な「死」を描きながらも、その「死」を乗り越え、前に進んでいく主人公を描いたキッズアニメの名作といえば、劇場版 若おかみは小学生! があります。
2つ目。
ビョーゲンズたちはこの地球を自分達にとって住み心地の良い世界に変えようとしているわけですが、それは逆に言うと、いまの世界はビョーゲンズたちにとって「住み心地が悪い」という意味です。そして、単に「住み心地が悪い」だけならまだ我慢もできるかもしれませんが、本来、生命にとって「住み心地が悪い」ということは「死」に直結する問題です。ビョーゲンズたちにとって住み心地の良い世界が、他の生命を「死」に至らしめる世界であるなら、他の生命にとって住み心地の良い世界もまた、ビョーゲンズたちを「死」に至らしめる世界であってもおかしくありません。
もしそうであるならば、ビョーゲンズたちもまた、自分達の「命」をかけて戦いに挑んでいることになります。そういった事情があるならば、ヒーリングアニマルとビョーゲンズも、本質的には何も変わらない存在であり、単純に前者を「善」とし、後者を「悪」だとして裁くことはできなくなります。
なぜなら、もし「自分の命のために他の命を奪うこと」を「悪」だと仮定すると、 鶏肉を食べる私たち人間も、サケを食べる熊も、芋虫を食べる鳥も、小魚や動物プランクトンを食べるサケも、キャベツを食べる芋虫も、植物の成長を抑制させる物質を放出することで周囲の植物を駆逐するセイタカアワダチソウも(※2)、すべて「悪」となってしまうからです。これらの事実に目を向けず、他の生物を病気にする「病原体」だけを「悪」とするのは、筋が悪いと言わざるを得ません。
「生」と「死」が切り離せないものであるのと同様に、「生きること」と「他の生物の命を奪うこと」もまた不可分のもので、「命」はそうした前提のうえに成り立っているものなのです。
※2 植物って、のんびりして平和なイメージがあるかもしれませんが、彼らは「全方位ほとんど敵しかいない」「基本動けない」「植物同士すら敵」という超ハードモードを強かにクリアしてきたものすごい存在です。
「のどか」と「ちゆ」は同じカメラに入らない
ちゆ「ねえ、あなたもしかして、運動苦手なんじゃなくて、あまりやったことないんじゃないの?」
のどか「え? 何で分かるの?」
ちゆ「何となく。どれだけ動いたら、どれだけ疲れるとか、自分で分かってないように見えて」
のどかさんとちゆさんが、桜の木の下で語り合うシーン。
このシーンの何が「うまい」かと言うと、「二人が同じカメラに入らない」という点です。二人は桜の木の反対側にそれぞれ立っていて、カメラは「のどかだけ」を映して、その次に「ちゆだけ」を映します。二人が同時に映らないことで、のどかさんとちゆさんの「距離感」――すなわち、「まだ相手のことをよく知らない」ことが表されています。
そして、これは私たちにも当てはまることです。
「ちゆ」は、のどかさんのことをまだ詳しく知らない存在ですが、それは私たち鑑賞者も同様です。のどかさんのことをもっと知りたいと思う私たちの想いは、同じくのどかさんのことを知ろうとする「ちゆ」の想いと重なるようになっています。
続くカットでは、「ちゆ」の顔がクローズアップされます。
のどか「ちゃんと運動やってる人には分かるんだね。わたしはずっと、見てただけだったから」
ちゆ「そう…なの」
のどか「だからいま、いろんなことをやってみたくてしかたないの。すぐ疲れちゃうんだけどね」
「ちゆ」の顔がクローズアップされることで、「ちゆ」がのどかさんの台詞に「何かある」と気付いたことが示唆されていますが、これもまた私たち視聴者の心とシンクロするものです。
さて、のどかさんの心の一端に触れた「ちゆ」は、のどかさんのもとに近寄ります。ここで、二人はついに「同じフレーム内」にその姿を映します。
ちゆ「最初は欲張らないこと、かな。まずは基礎体力をつけながら、自分がいちばんやりたいことを決めて、がんばるといいんじゃない?」
のどか「いちばん、やりたいこと…」
これにより、二人の関係性がより身近なものになったことが表されると同時に、「ちゆ」と心を重ねていた鑑賞者も、のどかさんとの距離をさらに縮めることになります。優れた絵画は鑑賞者の視線の行く先も計算しているものですが、ヒープリも同様です。一連のシーンでは、私たちの心が「ちゆ」というキャラクターを借りることで、自然とのどかさんに近付いていく――そういう仕掛けが施されているのです。
※ついでに言うと、次回の3話でメインとなるのはちゆさんです。この場面でちゆさんと鑑賞者の心を重ねておくことで、3話のときに鑑賞者がちゆさんにスムーズに感情移入をできる効果を生んでいます。
好きだからこそ、危ない目には遭わせたくない。
ペギタン「自分でパートナーに選んでおいて、あれはひどいペエ」
ラビリン「分かってるラビ」
ペギタン「じゃあ、のどかに謝るペエ」
ラビリン「謝るけど、パートナーはだめラビ」
ペギタン「どうしてペエ?」
ラビリン「だって、危ないラビ。ただでさえビョーゲンズの浄化は危険ラビ。なのにあんなどんくさかったら、もっともっと危ないラビ」
ペギタン「ラビリン…」
ラビリン「ラビリンだって、見習いラビ。せっかく勇気を出してくれた優しいのどかを、危ない目にあわせちゃったら…」(汽笛の音)
ペギタン「ラビリンは、のどかのこと、好きなんだペエ」
ラビリン「心の肉球にキュンとくるって、こういうことラビね…」
沈みゆく夕日を前にしながら、ラビリンはなぜのどかさんとのパートナーを解消しようと思ったのかを語るわけですが、このシーンの描かれ方も非常に丁寧だなと思います。
というのも、突然パートナーをやめると申し出たラビリンに対して、鑑賞者が抱いているかもしれない負の感情(ラビリンはちょっとひどいのでは…?)を解消させながら、ラビリンに対しても好感を抱ける作りになっているからです。
1話の考察で、エンターテインメント作品で重要なのは「主人公を好きになってもらうこと」だと書きましたが、ラビリンもまたヒープリの主人公であり、ラビリンのことが好きなれないと今後の展開を純粋な気持ちで楽しむことが難しくなってしまう危険がありますし、ラビリングッズの人気にも陰りが出てしまうかもしれません。
また、ラビリンは「親の視聴者」の感情移入先になっていたとも考えられます。
好きだからこそ、危ない目には遭わせたくない。
自分の子がビョーゲンズのような強大な敵と戦うことを知ったら、親としてはなかなか許容しがたく、止めたくなるものです。
カメラの左から右側へとゆっくり動いていく船の演出も見事です。
画面が固定されたまま、船だけがゆっくりと動いていくことで、動かないラビリンたちの「静」が強調され、ラビリンの抱く「葛藤」が浮き上がる仕掛けになっています。また、動きが少ない≒情報量が少ないことで、私たちがラビリンの気持ちを想像することに集中できる状況を作り出しているとも言えます。
それでも、花寺のどかは「手を伸ばす」
ラビリン「のどか! あんな格好、意味ないの分かってるラビ! 何で逃げないラビ!」
のどか「だって助けたいんだもん! ラテも、エレメントさんも、学校も、みんな病気なんて、辛いよ!」
ラビリン「のどか…」
のどか「わたしね、長い間、ずっと病気で休んでたの。ずっとずっと、思うようにうごけなくて、何もできなくて、辛くて、悲しくて、寂しくて…。でもね、お父さん、お母さん、お医者さんたち、たくさんの人が励ましてくれて、助けてくれて、そうやって元気になれたの。だからわたし、思ってた。いままで助けてもらった分、たくさんの人にお返ししたいって。いろんな人を助けたいって。だから、プリキュアになれて、嬉しかった。ラビリンがわたしを選んで、嬉しかったの」
のどか「ぜったい応えたいって思った。ひとりじゃできなくても、ラビリンといっしょならできるって思った。お願いラビリン…わたしは運動得意じゃないけど、お手当てだけは、プリキュアだけは、何があってもがんばるから! 苦しむ地球を、ラビリンといっしょに助けたい…これがいま、わたしのいちばんやりたいことなの!」
声優・悠木碧さんの名演技が炸裂したこのシーン。
一見すると脆いようで、その実、ブレることのない芯の強さを持っているのどかさんの心情が見事に表現されていて、さすがという言葉しか出ずポロポロ泣いてしまいました。
ここで注目したいのは、ラビリンの台詞です。
ラビリンは「あんな格好、意味ないの分かってるラビ!」と、のどかさんが生身でメガビョーゲンを止めようとしたことを「無駄」だと主張していますが、実は同じようなことをダルイゼン君も言っています。
ダルイゼン「ハハハ。それでどうにかできると思ったの? バカでしょ」
もちろん、ダルイゼン君のそれは「嘲笑」であり、ラビリンのそれは「心配」から来るものですが、言葉にすると、どちらも同じようなものになるのです。
「あんな格好、意味ない」
「それでどうにかできると思ったの?」
しかし、それでも、のどかさんは折れません。
彼女は、力強く主張します。だって、助けたいのだと。病気が辛いことを知っているからこそ、苦しむ地球を助けたいのだと。それこそが、自分のいちばんやりたいことなのだと。
のどかさんは、その小さな体で必死に「命」を掴み取り、生き抜いて来た女の子です。きっと彼女は、これまでにも、何度も、何度も、手を伸ばしてきたのでしょう。同世代の子たちのように遊びたい。走り回ったりしたい。でも、できない。病気になってから治るまで、ずっと、ずっと、何度も、何度も手を伸ばし続けて、ようやくその手が届いたのが、14歳になった「今」なのです。
だからこそ、のどかさんは、その手が届かなかったとしても、手を伸ばすことを決してやめたりはしないのです。お父さんやお母さん、たくさんの人に支えてもらいながら手を伸ばし続け、数年、十数年をかけて「生」を掴み取った彼女だからこそ、「意味がない」と言われても、嘲笑されても、決して自分の想いを諦めたりはしないのです。
いままで助けてもらった分、たくさんの人にお返しをしたい。
その想いの強さ、のどかさんの気持ちを知ったラビリンは、のどかさんにパートナーを続けたいと涙ながらに申し出ます。
ラビリンが「お医者さん失格」だった理由
ラビリン「ごめんなさいラビ!」
のどか「ラビリン…」
ラビリン「のどかの事情も、気持ちも聞かないでいろいろ決めちゃって、ラビリンお医者さん失格ラビ…」
のどかさんに謝るときのラビリンの台詞で注目したいのは、「お医者さん失格」という言葉です。なぜラビリンがこの時に「お医者さん失格」という言葉を使ったかというと、ラビリンのした行為(のどかさんのためを思って、のどかさんの気持ちを聞かずに、一方的に今後の方針を決めて、パートナーを解消したこと)が、現代の医療では一般的に好ましくないとされている「パターナリズム(※1)」だということに気付いたからです。
ヒープリ2話で描かれていた主題は、実際の医療問題にもうまく繋がっているのです。
※1 たとえば、患者の意思を問わずに一方的に医療方針を決めたりすることが、医療における「パターナリズム」に該当します。現代の医療では、パターナリズムと反対の「インフォームド・コンセント」が原則になっています。インフォームド・コンセントとは、患者が病気や治療について十分に理解し、同意したうえで、医療方針を決定するプロセスのことです。(とはいえ、幼い子どもを治療する場合や、患者が意識不明で意思確認ができない場合など、パターナリズムが正当化される場合もあります)
参考リンク:
終わりに:なぜ2話で新プリキュアが登場しなかったのか?
ヒープリ2話では新しいプリキュアは登場せず、のどかさんとラビリンがバディとしての絆を深める回となりました。これにより、ヒープリが人間とヒーリングアニマルの「バディもので」あることが強く印象付けられています。
なぜヒープリがこのように人間とヒーリングアニマルの「バディもの」を描こうとしているのかというと、おそらく、ヒープリのテーマのひとつにもなっている「共存」に直結するものだからだと思われます。
ヒーリングアニマルたちは、いわばこの地球に生きる「人間以外の生物」たちの象徴です。現実世界の私たちも、他の生物たちと共存することで生きています。共存することなしに、自分たちだけが生きることは不可能ですし、そのバランスが崩れたときには、何らかの「悲劇」が待っています。
これから1年間、ヒーリングアニマルやビョーゲンズを通して、他の生物との「共存」について改めて考えることになりそうだなと、そんなことをぼんやりと考えています。
雑談
ラテの名前の由来は、大地や地球を意味する「テラ(terra)」の逆さ読みだと思います。地球が蝕まれると体調を崩すラテは、地球と一心同体なので。
あ、そうか。ラテも反対から読めば、大地や地球を意味する「テラ(terra)」になるのか。地球が蝕まれると体調を崩すラテは、地球と一心同体、だからこの名前なのか#precure
— 金色 (@konjikinohiru) February 9, 2020
前回のヒープリ1話の考察です。「生きてるって感じ」とは何か?
スタプリロスを脱したくて、スタプリのエピソードを振り返ってみました。本当は後編の記事も先週に書きたかったんですが、ビョーゲンズにお腹を蝕まれてそれどころではありませんでした。くっ…。
以上、長々と読んでいただきありがとうございました。
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