ヒープリ1話、始まりましたね。
明るく楽しい雰囲気を保ちながらも、随所に「ヘビー」な断片が散らばっていて、今後の展開がとても楽しみな作品です。
この記事はヒーリングっど♥プリキュア1話の考察をしたものです。1話のネタバレを含みますので未視聴の方はご注意ください。
- 計算し尽くされたアバン
- 花寺のどかは「助けたい」
- ダルイゼンと「共存」はできるのか
- 人を助けるには自分が「無事」である必要がある
- それでも、のどかは走る
- 「献身的」な、あるいは「自己犠牲的」な
- 終わりに:「生きてるって感じ」とは何か
- 小ネタ
計算し尽くされたアバン
のどか「ふわ~! 見て見てお母さん! 波がざばーんってなって、しぶきがキラキラってなって!」
母・やすこ「のどか。お母さんいま運転中」
のどか「だって、本物の海見るの久しぶりなんだもん」
アバン(冒頭)。
車内から海を見て、「ふわ~!」と喜びの声を上げるのどかさん。うまいなあと思うのは、世界観の説明(①のどかたちは引っ越してきた ②舞台となるすこやか市は自然が豊かな町)をさくっと済ませつつ、「気になる台詞」を紛れ込ませている点です。
気になる台詞というのは、もちろんこちらです。
のどか「本物の海見るの久しぶりなんだもん」
普通であれば、のどかさんたちが以前に住んでいたところは「海に面していない地域」で、だからこそ本物の海を見るのが久しぶりなのかな、と考えるところです。現に、私も最初はそう思いました。
ところが、そのまま視聴を続けていくと、「海を見るのが久しぶり」というのは、どうやらそう単純な話ではないかもしれないと気付かされます。それが何かというと、同じくアバンにおける次のカットです。
父・たけし「はしゃいでるなあ。おれたち置いてけぼりだ」
母・やすこ「しょうがないよ。だってあの子、やっと自由に走れるようになったんだから」
やっと自由に走れるようになった…?
本物の海を見るのが久しぶりで、やっと自由に走れるようになった、のどかさん。
アバンの数分間だけで、彼女の朗らかさの裏に「何か」が潜んでいることを、私たちは暗黙のうちに知らされるのです。しかも、世界観の説明もきっちり済ませながら。
まさに、1話として計算し尽くされたアバンだったと思います。
花寺のどかは「助けたい」
エンターテイメント作品において最も重要なことのうちのひとつは、「鑑賞者に主人公を好きになってもらうこと」です。特に、プリキュアのメインターゲットは3~6歳の子どもたちであり、子どもたちには「自分もプリキュアのようになりたい!」「玩具が欲しい!」と思ってもらえるように作品を見せていく必要があります。
その意味においても、ヒープリ1話はさすがでした。
本作の主人公・のどかさんに対して、鑑賞者がしっかりと好感を持てるような構成になっています。
具体的に言うと、のどかさんが次々に「人助け」をしていく場面です。
のどか「わたし、写真、撮りますよ!」
のどか「お荷物、持ちましょうか?」
おばあちゃん「重いでしょ。悪いわねえ」
「平気ですよ。わたし今、みんなの役に立ちたくてしょうがないんです」
のどか「あの、落ちました! あのー! シュシュー! 落ちましたー!」
ちゆ「ごめんなさい、ありがとう」
のどか「はぁ…はぁ…はぁ…どういたしまして…」
ちゆ「…大丈夫?」
また、これらの構成によって、鑑賞者はのどかさんに好感を覚えることができるだけでなく、「花寺のどか」はどういうキャラクターなのか? 何を大切にしているのか? ということを知ることもできます。
前作、スター☆トゥインクルプリキュアの主人公・ひかるさんの行動原理が「知りたい」であることが1話から示されていたように、今回のヒーリングっど♥プリキュアの主人公・のどかさんの行動原理は「助けたい」なのだということが、とても分かりやすく提示されているのです。
ダルイゼンと「共存」はできるのか
ダルイゼン「やれやれ、生きてるって感じだね~。ま、これからおれたちビョーゲンズが、星ごと蝕んじゃうんだけどね」
主人公の口癖に対抗するかのような発言をしたのは、敵キャラ・ダルイゼン君です。このあまりにもイケメンすぎるイケメンフェイスには思わず「イケメン…」と呟いてしまったのですが(語彙力なし)、それはさておき、ダルイゼン君はなかなか「ヘビー」なキャラクターだなと思います。
プリキュアの敵キャラは、多くの場合、主人公たちの主張を否定する役割が与えられています。そして、ダルイゼン君は「生きてるって感じ」――すなわち、生きとし生けるものが持っている最も根源的な欲求である「生きたい」を否定する存在です。
今後、ダルイゼン君とのどかさんは拳を交えていくことになるのだと思いますが、対極にある二人の価値観は交わることがあるのでしょうか?
これは私の推測ですが、勧善懲悪を描かなかったスタプリと同様に、ヒープリもまた、単純な「悪をやっつける物語」、「ビョーゲンズをやっつければ万事解決する」といった物語を描くつもりはないものと考えています。
というのも、ビョーゲンズのモチーフとなっている病原体もまた、「生きている」ことには変わりないからです(ウイルスは「生物」の定義から外れますが)。また、病原体は、生物にとって「悪い影響を及ぼす」こともあれば、「良い影響を及ぼす」こともある、まさに他の生物たちと「共存関係」にある存在です。
※詳しくは下記の記事で詳しく考察しているので、こちらをどうぞ。
※ちなみに、ダルイゼン君のピアスはのどかさんがつけている髪飾りとよく似ていることから、二人には何らかの「因縁」があることが示唆されています。それはいったいどのようなものなのでしょうか? もし、のどかさんの抱える疾患にダルイゼン君が関係しているのなら、ヒープリも相当に「えげつない」と思います(もちろん褒め言葉)
人を助けるには自分が「無事」である必要がある
母「こっちよ! どこ行くの!?」
ゆう君「だって、まだあっちにワンちゃんいたもん! 怪物に食べられちゃうよ!」
母「まずゆう君が逃げなきゃなの!」
ゆう君「や~だ~!」
「ワンちゃん…。大丈夫、わたしはもう、走れる!」
ヒープリ1話で印象的だったのはこのカットです。
ワンちゃんを助けに行こうとするゆう君は、お母さんから「まずゆう君が逃げなきゃだめなの!」と止められてしまいます。
せっかくゆう君がワンちゃんを助けようとしているのに、それを止めて、ワンちゃんを助けにも行こうとしないお母さんはひどい! …と思う方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれませんが、お母さんの判断は「救助」においてもっとも重要な点を押さえている実に賢明なものだったと言えます。
というのも、「救助」をする際には、まず救助者自身の身の安全を確保する必要があります。人を助ける前に、まずは自分が「無事」でなければなりません。どんなに「人を助けたい」という想いが強くあったとしても、人を助けようとすることで自分自身が危険に陥ってしまっては、被害はますます広がるばかりで、かえって救助を困難なものにしてしまいかねません(いわゆる二次災害)
もちろん、幼い男の子の「助けたい」という気持ちはとても素敵なものであり、その想い自体は否定されるべきものではなく、むしろ賞賛されるべきものだと思います。しかし、あの状況で「まずは自分と我が子の身を守る」という判断をしたお母さんは、親としての役割を十分に果たしていますし、結果的にワンちゃんを助けられなかった二人には、何ら責任はないと考えます。
参考リンク:
救助者が守るべきこと|講習の内容について|救急法等の講習|活動内容・実績を知る|日本赤十字社
それでも、のどかは走る
一方、ヒープリの主人公・花寺のどかさんは、身の危険も顧みずに「ワンちゃん」を助けるために走ります。「待って! 危険すぎる!」。親目線で視聴していた私なんかは、つい、そんな感情を抱いてしまいます。「まずは自分のことを大事にして…!」と。
しかし、のどかさんは、走ります。
やっと走れるようになったばかりなのに。
ちょっと走るだけで息を切らしてしまうのに。
危ないことは分かっているのに、誰から頼まれるわけでもなく、自らの意思で――彼女は走るのです。
その胸に、「助けたい」という想いを抱いて。
何でそこまで? いったい何が彼女を動かしているの?
私たちの頭に浮かぶ疑問は、次のカットでたちまち氷解します。
(回想)やすこ「大丈夫だよ、のどか」
(回想)たけし「お母さんたちが、ついてるからね」
のどか「決めたじゃない…今度はわたしの番。ワンちゃん、大丈夫だよ。わたしが、みんながついてるからね」
のどかさんは、生きられなかったかもしれない人間――かつて、「死」を直視した人間だったのです。
なぜのどかさんは「やっと走れるようになったばかり」だったのか。
なぜ彼女はここまでして「人助け」にこだわるのか。
これまでの謎が一本の線で繋がったとき、「花寺のどか」というキャラクターは一気に身近な存在となり、彼女の持つ「奥行」をまざまざ知ることになります。
考えてみれば、のどかさんが「人助け」 をするとき、困っている人は「目の前」にいませんでした。(ちゆを除く)
もう一度、外国人に写真を撮ってあげたときや、荷物を運ぶおばあちゃんを助けたときのシーンを振り返ってみていただきたいのですが、外国人はもともとのどかさんから「離れたところ」にいましたし、おばあちゃんも公園の外側の「離れたところ」にいました。
「ワンちゃん」こと、ラテを助けに行ったときも同様です。
プリキュアシリーズの1話では、主人公の目の前に「敵」と「敵から襲われる妖精」が現れる展開も多いですが、ヒープリはそうではありません。「敵」はちょっと離れたところに登場し、のどかさんは「まだ見ぬワンちゃん」を助けに行くのです。
上記の描写からは、のどかさんの「助けたい」は、「困っているのを見ちゃったからには放っておけない」というレベルのものではなく、「できる限りの人助けをしたい」という非常に強い想いであることが示されているわけです。
「献身的」な、あるいは「自己犠牲的」な
本作の主人公・花寺のどかさんの「人となり」がある程度分かった1話でしたが、のどかさんにはある種の「危うさ」があります。それは、よく言えば「献身的」、悪く言えば「自己犠牲的」なほど、「人助け」をしようする姿勢です。たとえば、「わたし、何でもする!」という台詞からは、多少の負担や危険は顧みない姿勢が見受けられます。
のどか「ねえ、あなたたちはその、お手当ての方法、知ってるんだよね? わたしに何かできることない? わたし、何でもする!」
しかも、のどかさんは自分自身の「健康状態」もあまり良好とは言えない様子です。「人のことを助ける」ためには、まずは自分が無事である必要があると前述しましたが、もともと体の強くないのどかさんの場合は、展開によっては本当に無事では済まない危険があります。
「人を助ける」とは、どういうことなのか。
自己犠牲のうえに成り立つ「人助け」に、意義はあるのか。
今後、もしかすると、ヒープリの主人公たちはこうした問題と向き合っていくことになるのかもしれません。
終わりに:「生きてるって感じ」とは何か
本作の主人公・のどかさんの口癖は「ふわ~、生きてるって感じ」というものです。
さて、ここでひとつ疑問なのですが、人はどのようなときに「生きてる」と感じるのでしょうか。
たとえば、そう…必要条件としては、「病原体に蝕まれていない状態」、「健康」なときでしょうか?
インフルエンザやノロウイルスなんかで寝込んでいるときには、「生きてるって感じ」よりも、どちらかというと「地獄」を見ている感じがしますよね。
では、そもそも、「健康」とはどういう状態を指すのでしょうか。
世界保健機関(WHO)憲章(1946年7月22日署名)では、「健康」は次のように定義されています。
「健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが 満たされた状態にあることをいいます」
単に病気をしていないというだけではなく、「肉体的、精神的、そして社会的にもすべてが満たされた状態」を指しており、その条件は非常に厳しいものであることがうかがえます。この定義からすれば、肉体的に完全な状態とは言えないのどかさんは「健康ではない」とされてしまいそうです。
一方、「健康とは何か?」「健康は誰のためのものなのか?」という問題についての、次のようなレポートもあります。三原岳氏は、先ほどのWHOの定義した「健康」は感染症が中心だった時代の議論であり、慢性的な疾患や高齢化などが増えた現代においては、ややそぐわないものになっていると指摘しながら、次のように述べています。
先に触れた通り、疾病構造の変化や高齢化の進展を踏まえると、「肉体的、精神的、社会的に完全に満足な状態」は困難となる。
むしろ、アメリカの著名な微生物学者、ルネ・デュボスが記した健康論の古典的な書籍に注目したい。ここでは、周りの環境の変化などに適応する人間本来の生物的な特性を重視しつつ、「生きているという過程は生体と環境の間の、ときには傷害や病気をもたらすような複雑な相互作用である」と指摘した上で、健康について以下のように述べている。
完全で積極的な健康という考えは、人間のこころのユートピア的な創造物である。人間の生活に、闘い、失敗、あるいは苦悩が入りこまないというまでに、人間がその環境に完全に適応し切ることは決しておこらないだろうから、この考えが現実のものとなることはありえない。
さらにデュボスは別の書籍で健康について、「人間がいちばん望む種類の健康は、必ずしも身体的活力と健康感にあふれた状態ではないし、長寿を与えるものでもない。(略)各個人が自分のためにたてた目標に到達するのにいちばん適した状態」と定義している。
(略)
こうした議論に従うと、病気の有無だけで健康と不健康を線引きできない点、さらに人間の心身や健康状態が周りの環境から大きく影響を受ける点に留意する必要がある。
出典:健康とは何か、誰のための健康づくりなのか~医療社会学など学際的な視点からの一考察~ | ニッセイ基礎研究所(PDF版はこちら)
「人間の生活に、闘い、失敗、あるいは苦悩が入りこまないというまでに、人間がその環境に完全に適応し切ることは決しておこらないだろうから、この考えが現実のものとなることはありえない」
健康とは、「各個人が自分のためにたてた目標に到達するのにいちばん適した状態」。
…どうでしょう? ヒープリの描こうとしているテーマとも、何となく、関係していきそうではないですか?
重い病気から快復したものの、「完全な状態」とは言えないのどかさん。
今後、彼女はどのような時に「生きてるって感じ」だと言うのでしょうか。「病気を克服した」と感じたとき? あるいは、あらゆる「苦悩」を感じることなく心からリラックスしているとき? それとも、病気や苦悩と付き合いながらも、自分のたてた目標――「人助けをしたい」という想いを実現できたとき?
生きてるって感じとは、何なのか。
私には、それがヒープリという作品の根幹に関わる問題のように思えるのです。
小ネタ
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絶対失敗しないお医者さんなんて現実世界にはいませんが、木曜日のテレビ朝日にはいます。
参考リンク:木曜ドラマ『ドクターX ~外科医・大門未知子~』|テレビ朝日
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以上、ヒーリングっど♥プリキュア1話の感想考察でした。
読んでいただきありがとうございました。
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