誰しもがそうだと思うんですが、私にも厨二病をこじらせていた時期がありました。*1
そのころは読書にはまっていて、手当たり次第に本を読んでいたと記憶しています。
つい先日、厨二病時代に書いた書評を発掘してしまいました。
十年以上も前に書いたものです。
かっこつけた文章があまりにも痛々しく(当時はまっていた村上春樹の文体を模倣しようとしていて失敗している)、ひとしきり「片腹痛いわ」と笑ったあと、すぐさまこの世から消し去ろうと思いました。
黒歴史なんて取っておいてもいいことは何もありませんからね。
突けばえぐるような激痛を伴う弱点を持ち続ける理由など一切ありません。
この世からも記憶からも抹消し、何食わぬ顔で生活を営むのがいちばんです。
というわけで、ここに晒そうと思います。
皆様におかれましては、こんな書評を読んだところで困惑するだけでしょう。
どんな顔をしたらいいのか分からないかもしれません。
そんなときは、あれです。
笑えばいいと思うよ。
(以下、ネタバレありですので、未読の方はご注意ください)
(一応、未読でも分かるようにあらすじと補足を加えています)
1.わたしを離さないで あらすじと補足
あらすじ
物語は、31歳になった介護人キャシーが、施設ヘールシャムで育てられた子ども時代を、親友のトミーやルースと過ごした日々を回想しながら進んでいきます。
しかしキャシーの回想には、とある「残酷な真実」が含まれていました。
ここでいう「残酷な真実」とは、施設ヘールシャムで育てられていた子どもたちはみんな「提供者」と呼ばれるクローン人間であり、オリジナルの人間に対して臓器提供をするために生み出され、育てられた存在であるという事実です。
施設ヘールシャムの子どもたちは、臓器提供のために生きる使命を帯びており、度重なる臓器提供の果てに命を失う運命を背負っているのです。
登場人物
キャシー…語り手
ルース…キャシーの親友。女。2回目の臓器提供によって死亡
トミー…キャシーの親友。男。子ども時代には癇癪をよく起こしていた。4回目の臓器提供(死亡する恐れが高い)を目前にして再び癇癪を起したが、キャシーに諭されて落ち着きを取り戻した。
補足
作中において、トミーの癇癪は、臓器提供用のクローン人間としての使命や運命に対する否定や拒絶を表しています。
しかし、4回目の臓器提供を目前にして癇癪を起こしたトミーは、最終的には落ち着きを取り戻し、自身の運命を受け入れることを選びます。
2.厨二病をこじらせていた時に書いた 感想 考察
あの人の介護をしながら、わたしは自分の幸運を思いました。わたしたちが――トミー、ルース、わたし、その他の仲間たちが――いかに幸せだったかをしみじみ噛みしめました。*2
(冒頭におけるキャシーの独白)
出典:『わたしを離さないで』カズオイシグロ著
私にとっていい本とは、次の二種類に分類される。
読み終えた直後にしばらく放心状態になるようなミサイル的な破壊力を持つものと、読み終えた直後は特になんとも思わないんだけど、しばらく時間が過ぎていくと心のなかでその本に対する思いがどんどん込みあがってくる潜伏期間の長いウイルス的な影響力を持つものだ。
そしてこれに当てはめると、本書はまさに後者の本といえる。
私がいちばん印象に残っているのはトミーが癇癪を起こすシーンだ。
おそらく作者もそれらのシーンになんらかの思いを込めていることは、始まりと終わりの両方に挿入していることからもうかがえることだろうと思う。もっともトミーの癇癪への解釈については深くは語る必要もないだろう。私が気になっているのはどちらの癇癪にしてもキャシーが彼を止めに入っているということで、また彼が最終的にはそれに従ったという事実そのものだ。
最初の癇癪でトミーが大人しくなったのはまだわかる。だが最後の癇癪で大人しくなってしまえば、それはすなわち、定められた運命――誰かに敷いてもらったレールの上を抗うこともせず歩いていくという――を認めることを意味するのではないだろうか。
もしそうだとすれば、少なくと私には、トミーの末路は惨めな負け犬のようなものにしか見えない。考えることを止め、自由を捨て、ただいいなりになるだけの楽な人生を選んだ彼のことを、私は好意的に見ることはできない。
…と、私は初めそう思った。
ただ、実際のところ、問題はもっと複雑だった。私はずっと、序章でキャシーが語っていた、「わたしやトミーたちは幸せだったと思う」という言葉が頭から離れなかった。それについてずっと考えていた。けっきょく私が気づくことができたのは、本書を読み終えてから数日経ってからのことだった。
トミーは最後の最後で、他人の敷いたレールの上を歩くことを認めた。なぜなら彼の幼きころの思い出はすべてそのレールの上で体験したことだったからだ。そのレールを否定するということは、楽しかったあの日々のすべてを否定することにほかならない。はたして彼にはそんなことができただろうか? 答えは明白だ。
たぶん彼は最後の癇癪を起こしたとき、自分でもなにを肯定してなにを否定すればいいのかわからなくなったのだろう。
そんなときに、トミーはキャシーの顔を見た。そして納得したのだ。自分は確かに他人の敷いたレールの上を歩いているだけかもしれない。もうすぐ崖が迫っていて、このまま行けば落っこちることは間違いないということをわかっていながら。
しかし、ときには踊りながら、ときには喧嘩しながら、ときにはレールの外に足を一歩だけ踏み出してみたりしながら、自分はここまで歩いてきたのだ。おれはレールの上の歩き方まで決められていたわけではないのだ、と。
そして彼はレールの上を歩き続けることを決める。過去の楽しかった日々が、過去の楽しかった日々がつくりあげた現在が、この上もなく愛おしいものだと感じたからこそ。
つまり、「わたしやトミーたちは幸せだった」という言葉は間違いではなかったのだ。
他者が他者の歩き方を決める。それは間違いなく不幸ななにかを呼び寄せてしまうことだろう。なんとか教は邪教だ、うんたら教に改心しなさい。おまえは男なのだから、スカートを履いて化粧するのはおかしい。エトセトラ、エトセトラ…。
では、他者が他者の目的地を決めることはどうだろう。代々この家系は医者なのだから、おまえも将来は医者になりなさい。おまえはあの方と結婚することが決まっているのだ…。
自分の嫌う歩き方を決められた者は不幸だ。歩くことそれ自体が苦痛なのだから、それはそうだろう。しかし自分の望んでいない目的地を決められた者は、必ずしも不幸とはいえないのではないだろうか。なぜなら歩き方だけは好きにしていいのだから。スキップをしながらでも、いいのだから。
ここで私はあるひとつのことに気づく。目的地が決められているのは、なにも彼らだけではないということに。そう、私だって、同じなのだ。それを望もうが望まなかろうが、私はやがてその場所にたどり着くことを決められている…つまり、死という目的地に。しかし、だからといって、我々が不幸であるだなんて、いえるだろうか?