金色の昼下がり

プリキュアについて割と全力で考察するブログ

ヒーリングっど♥プリキュア 45話(最終回) 感想 「健やかに生きる」を問い続けた集大成

  ヒープリ最終話、良かったですね。コロナ禍のなか、本当に一年間お疲れさまでした。そしてありがとうございました。

 この記事はヒープリ45話の感想と、この1年間シリーズを通して何が描かれたのかについてのちょっとした考察です。ネタバレを含みますので未視聴の方はご注意ください。

 

 

 

ビョーゲンズは単なる「病気」の象徴か?

 基本的にビョーゲンズは他者を蝕む「病気」の象徴(擬人化)として描かれていますが、単に「病気」だけの象徴として描かれているわけではないと思います。

 その根拠は以下の三点です。

  1.  ビョーゲンズが他者を蝕み虐げることに愉悦を覚えている描写が繰り返し描かれているということ
  2. 作中でダルイゼンがグレースに助けを求めていること
  3. ダルイゼンが自身の生を願う発言をしていること

 

 本来、「病気」は単なる概念に過ぎず、生きているわけではないはずです。が、ビョーゲンズ(特にダルイゼン)は明らかに「生きている」のような振る舞いをしています。ビョーゲンズには単なる「病気」としての役割だけではなく、他の役割も与えられているのではないでしょうか。それはつまり、「現在進行形で自分本位に他者を虐げる生き方」の象徴(擬人化)です。

 

 そして同時に、ビョーゲンズは「病原体」=「病原性を持つ生物」の象徴(擬人化)としては描かれていないのではないかと思い至りました。

 

 44話の感想記事にて、私はビョーゲンズを病気(病原体)の象徴であると記載したうえで、キングビョーゲンとプリキュアの戦いは生存競争のようなものであると説明していましたが、ビョーゲンズを「病原体」=「病原性を持つ生物」の象徴として捉えると、ビョーゲンズ側にも蝕まなければ生きていけないならないやむにやまれぬ理由があったのだという解釈に繋がりかねません。

 

 実際、病原性を持つ生物は、生存競争のために自らが生きるためにそうするしかないので他者を蝕んでいるわけですが、ビョーゲンズたちには「蝕まなければ生きていけないやむにやまれぬ事情」について具体的に説明された描写がありません

 

 また、45話でサルローが、人間の生き方について「ある程度は必要なことだがそれにしても限度ってのがあるだろう」と人間の環境破壊等に対して苦言を呈しており、「その先に行きつくのはキングビョーゲンだ」といった発言をしています。つまりヒーリングアニマルたちも、「生きている以上はある程度の他生物や環境を『頂く』ことは必要なこと」だと理解しています。そのうえで、彼らが非難しているのは「自分のことしか考えずに限度を超えて他を蝕み虐げること」そのものを指していることがうかがえます。

 

 ビョーゲンズを「病原体」=「病原性を持つ生物」としての解釈をしたうえで、キングビョーゲンとプリキュアの戦いを生物学的な文脈における「生存競争」と表記してしまうと、ビョーゲンズの蝕み行為は「食事」のような生命維持に必要不可欠なものとしてやむを得ず行っているというようなニュアンスになってしまう気がします。が、前述してきた説明に加え、ビョーゲンズは「なぜ蝕むの?(戦うの?)」というプリキュア側の問いに、「楽しいから」(バテテモーダ)、「その方が居心地いいから」「ほかのやつはどうでもいい」(ダルイゼン)と回答し、「大切とか聞いたらますます蝕みたくなっちゃう」(シンドイーネ)と嘲笑っていることからも、彼らの蝕み行為は食事のように生きるために必要なことというよりは動物虐待や強盗殺人といった自分本意で限度を越えた嗜虐行為の側面が強いものだと解釈した方が適切であるように思います。

 

 以上より、ビョーゲンズは単なる「病気」の象徴であり、そして同時に「現在進行形で自分本位に他者を虐げている生き方」の象徴と考える方がしっくりくるのではないか…と考え直しました。 

 

 →ヒープリ44話の感想

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 ※ なお改めて振り返れば4話でスパークルがメガビョーゲンを「倒す」と表現した際、ニャトランが「倒すんじゃない! 浄化するんだ!」と釘を刺していますし、ヒーリングアニマルたちがナノビョーゲンそのものを「滅ぼそう」としている描写もありません。ビョーゲンズが「病気そのものの象徴」であるなら、ナノビョーゲンが「病原性を持つ生物の象徴」になっているのかもしれません。

 

グレースがダルイゼンを助けなかった意味

 印象的なのは42話、助けを求めてきたダルイゼンの要求を拒絶したグレースのエピソードです。見落としてはならないのは、あのエピソードにおいてダルイゼンは単にグレースに助けを求めたのではなく、「グレースを再び蝕む」ことも要求しているという点です。

 

 つまりあのエピソードは単に「今まであなたのことを傷付けてきた人が助けを求めてきた」という話ではなく、「今まであなたのことを虐げてきた人が、その人自身のためだけに、更にあなたに対して犠牲を求めてきた」という話であり、グレースがそれを拒絶したということは、「あなたのことを虐げてきた人が、利己的な目的であなたに犠牲を求めてきたとき、あなたがそれを受け入れたくないと思うなら、あなたはそれを受け入れる必要はない」というメッセージ性を含む結果になっています。

 

 なおグレースはダルイゼンの助けを拒んでいますが、同時にキングビョーゲンがダルイゼンを蝕み虐げたことに対しては非常に強い憤りを示していますので、「自分を虐げてきた相手であれば虐げても良いんだよ」ということを言っているわけでないことも留意しておく必要があるでしょう。グレースたちがダルイゼンを「浄化」(ニャトランが4話で「倒す」のではなく「浄化」するんだという発言をしている通り、「浄化」は「倒す」という意味ではない)したというのは、ダルイゼン=現在進行形で他者を蝕み虐げる生き方を否定したという意味合いを持つものであり、「やられたからやり返した」というものではないのです。

 

※ もちろん過去シリーズのプリキュアは悪役に対して手を差し伸べたりするプリキュアも多数存在しますが、それは彼女たちが「(いわゆる)ヒーローの立場として助けようと思った」のではなく、「プリキュアだから助けようと思った」のでもなく、誰からの指図を受けたわけでもなく、悪役にも悪役なりの事情や背景があることを理解したりして、彼女たち自身が「個人として」の意思で心の底から助けたいと願ったから」そうなったに過ぎません。

 

 しかし今回のビョーゲンズは具体的な事情や背景があるわけでもなく、過去の反省を見せることもなく、対話可能性があるわけでもなく、現在進行形の加虐行為(ヒーリングガーデンを蝕み続けてる)をやめることもなく、グレース自身に更なる犠牲を求めるという展開でした。

 

 以上により、グレースがダルイゼンを拒んだことについて、「プリキュアなのに助けなかった」と責めるのは筋違いであるように感じますし、そもそも被害者としての立場にいるグレースに加害者を「絶対に」救わなければならないと他人が押し付けるのは酷であるように思います。被害者は本来、加害者に対するケアの責任を一義的に担わなければならない者ではないからです。

 

 また「『医療』をテーマにしている以上、助けを拒むのは医療的道義に反するのではないか」という意見もあるかもしれませんが、ダルイゼンはただ単にグレースに助けを求めているだけではなく、彼女の命を蝕み犠牲にすることを要求していることを忘れてはなりません。現実の医療的道義を考慮したとしても、少なくとも医者が己の命を捨ててまで患者を救わなければならない道義はないはずです。

 

(もちろんそれでもなお「救いたい」と当人が心から思うならそれはそれで一つの選択であると思いますし、ヒープリもそれを否定しているわけではないでしょう。あくまでも「グレースは嫌だと思ったから」拒絶を選択したという話であり、グレースも自分の選択が「絶対に正しい」と考えているかというとそうではないこともまた、迷い葛藤し続けた彼女の台詞や動きから読み取れます。しかし当人が悩みに悩んで「決めた」のであればそれは尊重されるべきであり、他人から非難を受けるいわれはないということもまた、「もし(悩みに悩んで助けないという選択をした)のどかにとやかく言う人がいたらぶっ飛ばしてやるラビ」というラビリンの台詞が物語っています)

 

 

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ヒープリにおける「戦い」の定義

 44話で語られていた通り、ヒープリにおける「戦い」はビョーゲンズとプリキュアで定義が違います。

  1. ビョーゲンズ側の戦い=「勝つため」=「他者を虐げ自分だけが君臨するため」
  2. プリキュア側の戦い=「負けないため」=「健やかに生きるため」

 

 のどかは「自分たちはいつも戦っている」と語っていますが、その戦いは「病気に勝つため」ではなく「病気に負けずに健やかに生きるため」のものです。

 ちゆが陸上の大会で頑張っていたのは「ハイジャンプで他人に勝つため」ではなく、ハイジャンプを頑張ることがちゆにとって「健やかに生きることに通じるため」です。(実際に彼女は誰かに勝ちたいからハイジャンプをしているわけではなく自分自身と向き合い「あの空」に届きたいのだという一心でジャンプしていました)

 ひなたが自分の嫌なところを治そうと戦っていたのは、「自分の嫌なところに勝つため」ではなく、彼女自身が「健やかに生きるため」です。

 

 ヒープリのテーマは「生きる」というものでしたが、おそらく「命の大切さ」といったものがテーマになっているわけではありません。ヒープリは「健やかに生きる」とはどういうことなのかを描き続けた作品であり、こうして改めて振り返ってみると、確かに彼女たちが「健やかに生きる充実した日々」「健やかに生きるために悩んだり葛藤したりした日々」が1年間を通じて描かれていたように思います。

 

 唯一、ビョーゲンズの中で「キングビョーゲン様のため」という利他的な動きをしていたのがシンドイーネさんですが、彼女はキングビョーゲン様のためなら仲間を含めたすべてを者を犠牲にすることを厭わない存在であり、やはり「健やかに生きている」とは言い難いと思います。(このことについては、44話の感想記事でも書いてます)

 

勧善懲悪ものとしてのヒープリ

 ヒープリはいわゆる勧善懲悪(「善」が「悪」を挫く物語)として描かれており、基本的にプリキュアがビョーゲンズを浄化する際にも罪悪感等は覚えていませんし、葛藤や躊躇することもありませんでした。

 

(例外は42話ダルイゼンがグレースに助けを求めてきたときのことですが、あれは「(現在進行形で自分のことを虐げようとしている相手に)助けを求められた」ということそのものに対する葛藤であり、ダルイゼンを浄化することそのものへの葛藤とは異なります

 

 ヒープリにおいてビョーゲンズを浄化することは「是」であり、そこには一切の「否」は含まれません。つまりヒープリは物語そのものがプリキュアたちの「生き方」に「是」を与え、ビョーゲンズのそれに「否」を与え、それで完結している物語です。

 

 そしてここで明確にしておきたいのは、ヒープリはそれぞれの「命」そのものに「是」や「否」を突き付けているわけではなく、その「生き方」に「是」や「否」を突き付けているという点です。実際、45話では「人間たちも浄化の対象となり得る」という話が出ています。ヒープリは「命は尊く素晴らしい!」ということを言おうとしているわけではなく、ましてや人間が「善」であることを主張しているわけでもなく、「健やかに生きることが善である」ということを、「自分本位に他者を蝕み虐げる生き方は悪」ということを示していたわけです。

 

 そして前述してきた通り、ヒープリにおける「善」とは「健やかな生き方」と定義されており、「悪」とは「病気そのもの」や「自分本位に他者を蝕み虐げる生き方」と定義されています。

 44話のネオキングビョーゲンとの最終決戦は、その「善」が「悪」を挫いた、すなわち「健やかな生き方」が「病気」や「自分本位に他者を蝕み虐げる生き方」を挫いたという話になっていることが分かります。

 

 さて、勧善懲悪の話というものは主人公たちにとって基本的に優しい物語です。主人公たちの信じる価値観は「是」であり、悪役の標榜する価値観は「否」なのだと明示されます。主人公たちは自分たちの価値観が間違っているのではないかと必要以上に悩むことはありませんし、葛藤することもありません。

 

 ヒープリもまた同様であり、彼女たちが「健やかに生きること」そのものに対して間違っているのではないかと葛藤を覚えたり悩んだり疑念を覚えることは一切ありませんでした。

 しかしここで注意したいのは、「健やかに生きることとはどういうことなのか」という苦悩は1年間かけて描かれ続けていた、ということです。

 

 たとえばアスミさんが初期の方で「ラテ様は絶対!」というふうに振舞って周囲のことを考えなかったりラテの希望にそぐわないことを無理強いさせようとしていたのは、「健やかな生き方」に反するものであり、アスミさんはみんなとの交流を通じてそれに気付くことができました。(もちろんアスミさんのこうした苦悩は「健やかに生きるための戦い」として扱われます)

 

 つまりヒープリの主人公たちはビョーゲンズを浄化することそのものにはまったく葛藤も感じない一方で、「健やかに生きるってどういうこと?」ということを悩み考え続けた物語となっていたわけです。

 

 このように考えれば、ビョーゲンズを浄化することに悩み葛藤を覚える描写が不必要であり、実際に描かれなかった理由が分かります。「病気という概念そのもの」や「自分本位に他者を蝕み虐げる生き方」が「悪」なのは自明であり、「健やかな生き方をすること」が「善」なのもまた自明です。したがって、両者の対立シーンで主人公たちが「ビョーゲンズは本当に悪なのか?」という悩みや葛藤が生じる必要もなく、結果として物語は勧善懲悪で和解のないものになったのだと思われます。(※1)

 

 ただし「健やかに生きるためにはどうすればいいのか?」というその手段は様々であり、時にはプリキュアや人間、ヒーリングアニマルでも間違えることはあるということは各種のエピソードで描かれています。アスミがラテ様は絶対!と考えていた話や、ペギタンが「ちゆのためを思って」陸上の練習をやめさせようとしたことなど、挙げればキリはありませんし、45話では人間もまた「健やかな生き方」を外れて「自分本位に他者を蝕み虐げる生き方」をするならば浄化の対象になる=「ビョーゲンズと同じ悪」になることが明示されています。ヒープリは、「健やかに生きるための戦いの物語」であると同時に、「健やかに生きるとはどういうことなのかを問い続ける物語」でもあるわけです。

 

※1 また、病気の治療をしたり、自分のことを虐げようとしてくる人に対して抵抗したり拒絶したりすることそのものに、もともと葛藤は必要ないはずです。つまりヒープリでビョーゲンズを浄化することに葛藤描写を加えてしまうと、「病気を治すことは必ずしも正しいわけではないのか」といった印象を与えてしまう危険があります。もちろんそれらを躊躇する必要はまったくないため、ヒープリではビョーゲンズを浄化することに対しての葛藤描写を徹底して描かないようにしていたのだと思います。

 

ビョーゲンズにもやむにやまれぬ事情があった?

 一方、繰り返しになりますが、やはりビョーゲンズにはビョーゲンズなりの事情があったのではないか、他者を蝕まなければ生きていけない生物であるなら、それは私達が動植物を食べるのと変わらないものであるはずで、ビョーゲンズの生き方も「悪」とは言えないのではないか、という意見もあるかもしれません。

 

 たとえば「特定外来生物」というものがいます。これは人間が勝手に本来の住処ではないところに運んできたせいで繁殖している生物であり、もともと悪いのは人間であって、彼らではありません。そして、ビョーゲンズのバテテモーダの元になっていたのはヌートリアという特定外来生物です。これらの描写から、ビョーゲンズ=「特定外来生物」(生きるために他者を虐げ蝕まざるを得ない何らかの事情を持った生物)として捉えることも確かに可能です。

 

 が、少なくともヒープリは、前述してきた通りビョーゲンズを「生きるために他者を虐げ蝕まざるを得ない何らかの事情を持った生物」というようには描いていません。そのような根拠となる描写は、1話から最終話まで、具体的に語られることはありませんでした。一方で、彼らは自分のことしか考えておらず、プリキュア側から「なぜこんなことをするのか」と尋ねられても「自分さえよければいい」「楽しいから」「大切だと聞けばますます蝕みたくなっちゃう」という発言に終始するのみで対話可能性もなく、仲間同士でも互いに裏切りを画策していましたし、戦うこと(相手を蝕み虐げること)そのものに愉悦を覚える描写が繰り返し描かれおり、地球すべてを蝕み虐げ死に至らせようとするという明らかに限度を超えた行為をしていました。

 

 したがって、ビョーゲンズは「他者や環境を蝕まざるを得ない何らかの事情を持った病原性のある生物や特定外来生物」の象徴として描かれているという考えは根拠が薄く、やはり作中描写にそぐわないものになってしまうような気がします。(※1)

 

※1 とはいえ、実際私もバテテモーダの元がヌートリア(特定外来生物)であるということをもってビョーゲンズには「他者を蝕まざるを得ない何らかの事情を持った生物」という側面を持っているのだとかなり長い間解釈しつづけていましたが、それ以上の根拠となりそうな描写がなかったこと、バテテモーダもあのまま浄化されて終わったこと、最終話付近の展開を見届けて考慮した結果、こちらの解釈は「間違いだったかな…」と考え直すに至りました。

 

※2 ちなみに小鳥が蝕まれることで誕生したネブソックが浄化された後、もとの小鳥に戻っていたことから類推できるように、バテテモーダが浄化された後も元のヌートリアに戻っていたと思われます。つまりヒープリはヌートリアという「特定外来生物の命」を否定しているわけではなく、あくまでもバテテモーダというビョーゲンズ=「自分本位に他者を蝕み虐げる生き方」を否定しているのだと思います。

 

「生きてるって感じ」から「生きてくって感じ」へ

  生きてるって感じ、というのはのどかの口癖でしたが、最終話ではこれが「生きてくって感じ」という台詞に変わりました。

 

 これは「今」を必死に生きていたのどかが、「今」だけを見るのではなく、地球環境のことなどを含む「未来」を見据えたうえで、みんなで手と手を繋いで「健やかに生きていく」のだという決意表明になっているわけです。

 

 ヒープリは近年のプリキュアシリーズとは異なり、大人化することがありませんでしたが、「今」から「未来」を見据えて「健やかに生きていくことの決意」を示すには、大人化しない最終回になったことはまさにピッタリだったと思います。そして最終回はアスミさんの台詞にもあったように、「健やかに生きるってどういうことか一緒に考えていこうね」ということを視聴者の子どもたちにも投げかけた、まさにヒープリの集大成だったと思います。

 

終わりに:プリキュアの示す「優しさ」の再考

 ヒープリで印象的なのは、やはり1話と42話、のどかが自分の身の危険を冒して犬を助けに行った話(1話)と、彼女がダルイゼンを助けないという判断を下した(42話)、二つのエピソードです。

 

 身の危険を顧みず犬を助けるのも、自分の心と体をどうぞ蝕んでくださいと差し出して相手を助けるのも、確かに「自己犠牲」という意味においては同じです。しかし、両者は決定的に異なる点があります。それは、「自分の心と体を蔑ろにしていないかどうか」という点です。

 

 のどかが犬を助けたのは、のどかが自分のことを蔑ろにしていたからでしょうか? 

 いいえ、そうではないはずです。のどかはその犬のことを心から助けたいと願い、だからこそ助けに行ったはずです。体はともかくとしても、ここでは彼女の心が大切にされています。

 

 一方で、のどかがダルイゼンを助けていたらどうでしょうか? 自分や自分の大切な人たちのことを虐げてきた人が、さらなる犠牲を要求して、自分を助けろと言ってくる。本当は嫌だと感じているのにそれに応じることは、果たして「自分の心と体を大切にしている」と言えるでしょうか?

 きっと、そうではないはずです。自分のことを大切にせず、ただただ自分本位に犠牲を強いてくる相手に、本当は嫌だと感じているのに自分の心と体を差し出すことは、「自分の心と体を蔑ろにする」ことに他なりません。それは決して「優しさ」とは言えないはずです。(※1)

 

 そして自分の心と体を蔑ろにする生き方は、ヒープリが繰り返し見せてきた「健やかな生き方」とは真逆のものです。

 

 つまりヒープリは1話から45話まで徹頭徹尾、「健やかな生き方」とはどういうことなのかを描き続けてきた物語であり、子どもたちに対して「どうか健やかに生きてね」というメッセージを送りつづけた作品なのではないでしょうか。

 

 あなたのことを蝕み虐げるモノに負けないように戦い続けて。

 健やかに生きるとはどういうことなのかを問い続け、実践しながら。

 自分の心と体を蔑ろにせず、他の人たちとの輪を大切にしながら生きてね、と。

 

 そんなヒープリに、私は心からの感謝を伝えたい気持ちでいっぱいです。プリキュアのみんなはもちろん、悪役を貫き通したビョーゲンズのみんなも私は大好きです。1年間、本当にありがとうございました。

 

 今日の午後から配信される感謝祭もとても楽しみです。

 

※1 43話でアースがワクチン化させたナノシンドイーネさんを取り込んだのも考え方は同じです。ナノシンドイーネさんを取り込むのは確かに体に危険が及ぶ可能性はありますが、ここでは「ネオキングビョーゲンを浄化してみんなと健やかに生きていきたい」というアースの心が大切にされていることが分かります。

 

 スタプリも大好きな作品でたくさん語ってます。

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